新しい世界を切り開くときは、大量の実験が必要

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仕事が一段落してきて、台湾生活が長いこともあり、日本の状況を知るために、ネット界隈で議論されていることを読んでいます。多くの若い人が、今のやり方から抜けようとしていろいろ努力しているようです。会社に縛られずにネット上で仕事できる道を探す人、新興国で働く道を探す人、学費や医療保険の新しい相互扶助を作ろうとする人、様々です。政府が張り子の虎だったことが震災でばれてしまったので、お上に頼らずに生きる方法はないか、と探っているようです。もちろん、こうした試みの8割方は失敗するでしょう。けど、試みを100回繰り返して1個ものになる、のが新しい世界を切り開くときのルールです。きっと近いうち、戦後の生き方とは違う生き方が確立されるでしょう。

こうした新しい動きに対する僕の立場はこうです:やろうとしていることの是非は重要ではありません。やることが重要なのです。なので、たとえ稚拙だろうが、考えが浅かろうが、別の思惑があろうが、新しい動きが起こった、それは十分良いことだと考えています。

本当にやばいことが起こったらどうする(たとえばファシズムの台頭など)、という批判もあるでしょう。全ての動きが透明に世界中にさらされている今、その動きを判断して必要なら止める力を僕たちは持っているのです。もはや「黒幕」はいません。今はまだ「炎上」という形でしか止める力が見えませんが。(なので僕は炎上が起こることも容認する立場です)なので、逆に自問してみましょう。社会は、僕たち自身が支えているのだ、と。個人的には、戦争につながるファシズムは起こらないだろうけど、新興宗教はさらに台頭してくるだろうと思っています。これについては別のエントリでまた考えを述べます。

その「動き」は本当に新しいことなのか?という批判もあるでしょう。どれだけ新しいことをやろう、と考えても、所詮僕たちの想像力には限界があります。新しいように見えて、古いやりかたの焼き直しや、手抜きだけじゃないか、と外から見えるのはむしろ当たり前なのではないかと思います。焼き直し?車輪を再発明しないかぎり、社会的な活動の内容が昔のものと似ているのは避けようがありません。手抜き?同じ苦労をしなくてすむ、のが日本人が得意だとされてきた「カイゼン」の定義でしょう。

結論は、考えあぐねるより、とにかくやってみることのほうが大切だ、です。ただ、究極に必要なのは「新しいことを行う」ではないだろう、とも感じています。それについては次のエントリーで。