存在の耐えられない近さ

さて、ツイッターから離れていて、戻るリハビリの一環として愛読する大庭亀夫くんのブログにコメントを書き始めたら長くなったので、自分のサイトにも載せます

亀夫君の記事:http://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/22/rieti/

橋下大阪市長が行った問題発言:http://www.huffingtonpost.jp/tag/hashishita

日本語世界では話題が「すごく個人的なこと」と「すごく社会的なこと」のどっちか極端にしか触れないのはなぜだろう、と自分でも思います。巷の会話を聞いていても、ものすごく身近で当人にしかわからないことを訥々と述べるか、ものすごくスケールが大きくて実感がわかない政治や社会の問題について延々と述べるので、どっちにしろ聴く気が次第に失せてくるのです。第三者になってみると、なんかどうでもいいな、とそのうち思えてきてしまうのです。現実感ありすぎで気が重くなるか、現実感なさすぎでつかみ所がないか。

英語で会話をすると、話題と自分との距離が近くなったり遠くなったりを簡単に調整できるので(というより、話題が自分との距離を自動的に調整してくれるようなところがあります)、そのときどきの話題や人に応じて会話と自分との距離が常に伸び縮みします。それがダイナミックな運動となり、会話を通じてお互いと肉体的に汗を流し、気がついたら3時間、心地よい運動を続けることなんてざらです。面白いことに、リズムにのってくるとはたで聞いてる人も入り込みやすいので(会話の距離がその人にとって適切になる瞬間はいつか必ず来るので、そのタイミングで飛び乗れます)、会話の輪が自然と広まっていきます。ダンスの輪が次第に広がるようなものです。

英語のそうしたダイナミックな会話の流れを過去時制にたとえれば、have beenの世界に似ているな、と時々思います。現在と過去の出来事のあいだに、常に何らかのつながりを持たせるhave beenの世界は、英語会話での自分と社会とのつながりに似ています。個人的な出来事と、社会的な情勢との間に細かいグラデーションがあって、ぶった切られていないから、会話はそのスロープの上でいったりきたりできる、そんな感じです。段差があまりないから、踊りながら行き来することだってできる。

振り返って日本語の会話は am と was しかない世界に見えます。今起こっているか(すごく個人的なことか)、過去に起こったか(すごく他人事なことか)、そのどちらかに固定されてしまい、両者の間につながりはない。会話していても、自分の事情と社会の情勢との間は完全に分断されているので、話題がなんであれ、どちらか一方に寄せなければいけない。話題がどちらか極端であればたいそう心地よいのですが、中途半端に身近な話題にとってはたいそう息苦しい世界だと思います。

例えば先日話題になった橋下発言については、彼が当たり障りのないことを言っていればあれは「他人事」できれいに処理できたのです。ところが彼が慰安婦についての意見を堂々と述べてしまい、それが日本全体の考えととられかねない勢いで国際社会に流れ、僕たちにとって奇妙に「身近な」話題に変貌してしまいました。これは実に、僕らにとって居心地の悪い状態でしょう。

発言自体は、僕には弁護の余地が見えません。(国際)政治的な思慮も、(同類と見なさない)他者に対する配慮も、決定的に欠けており、しかもそのことを自覚していません。いっそ「何もわかっていませんでした。勉強します」と言ってくれればどれだけましだろうか、と思います。失笑は買うでしょうが、少なくともはたから見える底知れない不気味さはぬぐえるはずです。北朝鮮のおぼっちゃまと、全く同じに見えると言うと言いすぎでしょうか?

しかし、それとは別に橋下氏を巡る日本での発言を見ていて、僕は終始違和感がぬぐえませんでした。彼をぶった切る側は「アメリカ/イギリス/中国/などなどではこんなことは起こりえない」と「手本とはここが違うよ」と指摘するという、よく考えてみれば日本で教師が生徒を叱る時に似ている調子です。肝心の、「手本」側が「なぜ」そんなことにしないかについての思考が、半自動的に途切れてしまうのも同じです。もう一方の意見は彼をめぐる状況を「分析」するように自説を述べ続け、次第に肝心な点から焦点がずれていくかのような印象を受けました。なぜかアメリカ軍の横暴や戦争の非人道性に焦点が移っていき、とんちんかんだったり、めんどくさそうな解説がつく。それらの言説には、「ずらす」ことが先立って、自分の意見でもって相手を本当に納得させようという意図は見えません。本当の目的は彼の発言のインパクトを中和することだったように見えるのです。とんちんかんなのは当たり前で、矛先をずらすことさえできれば、論点が向かう方向はどうだっていいからでしょう。

一見両極端に見える彼をめぐる意見は、しかし実は根っこでつながっているような気がします。彼を「外国ではこんなことはしない」と断罪するにせよ、彼の周辺や違う話題について語ることで彼自身への言及を避けるにせよ、結局両者は同じ効果を僕の中で喚起させるからです。「他人事」にしてしまうという効果です。結局、橋下発言の何がどう問題なのか、どうしてそうなのか、本質がわからないまま、という意味で、彼の発言を一人一人が自分個人と絡めて考えることがやりにくいもどかしさを感じるのです。自分とは異なるどこか遠い世界で起こっている出来事、にすべてが中和されてしまう、それこそが僕が感じた居心地の悪さの正体でしょう。これを日本語社会でいう「会話との距離」にあてはめれば、橋下発言にまつわるすべてを「自分」から可能な限り遠ざけ、「社会情勢」の領域に押し込めてしまおうという動きに見えます。

僕にとって、彼の発言を他人事にされることがどうして違和感につながるのでしょう?僕にとって、橋下氏が行った発言は「言語道断」ではあっても「他人事」ではないからです。日本で生まれ育った男性として、彼が口にした発言を聞いて「俺は絶対にこうは考えないな」と言い切れる人間がどれだけいるでしょう?彼が口にした意見の、少なくとも一部は、日本人男性が口には出さずとも心の奥底で秘めている「あるある」「いや実は俺も」「結局そうなんだわな」といった、「思い当たる」ものがあるはずです。でなければ、大衆の支持を得ることが最優先であるポピュリストの橋下氏が口にするはずがありません。彼は彼なりに、支持を得られると確信を得て発言したのだと思います。彼の本心であるかどうかは別として。だからこそ、僕たち日本人男性が脊髄反射する反応は「そんなまずいことを言うんじゃねえ、馬鹿が」という、調子にのって言い過ぎた道化者に対する恐怖が多少なりともあると思います。

僕たち(特に日本人男性)は、彼の発言が自分の心の琴線に多少なりとも響いてしまったことを、認めたくないのだと思います。特に、彼をバッシングする「欧米」のメディアの反応を見てからは。誰だって自分は「先進国」の「文明人」だと思いたいから。でも、僕らが普段使い慣れた日本語に則して彼の発言を自分なりに処理しようとすると、「自分と同じ」と「自分と無関係」の二者択一しか見えません。橋下は自分と同じ、とはみなしたくない、いや見なせない、となったら残る手段は一つだけです。どんな手を使ってでも、彼が自分とは全く関係のない存在であることを証明するだけです。

彼の言動を「外国とは違うよ」と言えば、自分は(外国のやり方を知っているか、もしくは外国とつきあいがあるから)違うよ、と示唆すると同時に、彼の言動の闇の深さから目をそらして「先進国にまだ達していない」と文化の成熟度の問題にできます。また、彼の言動を真っ向から否定せず、違う論点を取り上げることについては、問題に対する焦点と、自分自身に対する焦点を二重にずらす効果があるはずです。真っ向から彼を否定すると、それは真っ向から自分の一部を否定することでもあるので、嘘っぽさが見えたり、見破られたりする恐怖があります。何よりも、本当の論点についてしゃべればしゃべるほど自分も彼と同じ思考にとらわれていく恐怖がある。言語そのものに「同化」の力が内在されているから、直接何かの話題について語ると、磁石のように吸い込まれてしまう。だからこそその点をあえて「少しだけ」ずらすのが一番楽な防御方法になるのではないでしょうか。

以上、日本語を扱うがゆえの「話題と自分との間に適度な距離をとるのが非常に難しい」問題から派生していると思います。僕らがここまで彼のことを「他人事」にしてしまいたいのは、「彼が自分とどの程度近いのか、離れているのか」が正確につかめないし、つかんでも距離を保ちにくからです。反発する磁石を適度な距離に保つように、常に緊張を強いられます。ましてや会話の途中に距離が変化するなんて、相当エネルギーを消耗するでしょう。英語であれば、たとえ自分にとって「痛い」話題であろうと、話題の捉え方を調整することで距離が自動的に調整され、少なくとも余計な気苦労はしなくて済むだろうに。

僕自身は「手本」との差異の強調も、「中和」もしたくありません。できれば、こうした事件について、自分自身とのかかわりはどの程度あるか、を常に念頭において、自分とどこが同じで、どこが違って、自分はどう考えたのか、常に「僕自身」の立場から話しつつも、話題をつかずはなれずの距離におく訓練を日本語でも気をつけていきたいと思います。

しかし、独り言やブログならいざしらず、誰かとの会話の際には僕だけがそのような態度をとっていてもあまり長続きしません。なので僕も日本語で深い話題を軽く扱うときには、どうしても人を選びます。はっきり言ってしまえば、外国や外国語の考え方を受け入れられる人達です。ひょっとしたら、海外在住かつ他言語をマスターした日本人同士で、そのような新しい日本語の使い方が広まった結果、同じ言語であれど違うものが派生・進化するのではないか、と思う時があります。僕はそれを待ち望んでいるのでしょう。確実に。

夢一夜

夢の中でスポーツ選手に、世界一のパフォーマンスを出すというのはどういう気分なんだ?と僕は聞く。「うまくいえないな」と彼は答える。「突然降りてくるんだ。自分が力を出す訳ではない。気がついたら力が出ている。僕はその状態に至れるよう、自分を持っていくことに全力を注ぐ。」

「僕もその気持ちがわかるよ」僕は彼に言う。「僕は文章を書くことが好きだ。でも、何を書くかなんて、事前にはわかっていないんだ。書き終わって初めて、自分が何を書きたかったか分かるんだ」

僕は目が覚めた。自分が最近感じていた、「いったいこれから人生で何をしていこう」へのヒントが少し分かった気がした。答えは既に自分の中に眠っているのだ。僕はそれを掘り出すべきなのだ。どうやって?書くことで。僕は書くことで知ってきた。書いたり、他人からの問いかけに答えることで、初めて自分が何を考えているのかわかってきた。僕が今仕事に打ち込めず、かといって鬱になっているわけでもなく、何をすればいいのかよくわからない状態にあるここからどうやって抜け出すのか?書くことではないのか?自分が言いたいこと、書きたいことが自分の中に蓄積されているからではないのか?仕事なんていいから早く中にたまっているものを吐き出せ、そう自分の中から声が叫んでいるのではないのか?

少し書いたら出すものなんて枯れてしまうんだよ、とひ弱な僕は抗議する。数週間書き溜めたら、沈黙してしまうんだ。書くことなんて別にどうでもいい、って。それがしばらく続いて、また僕は悶々とし始める。その繰り返しなんだ、書くことはセックスみたいで、時々発散できればそれでいいくらいなもんなんだ、僕はさらに続ける。

それは確かに発散だ、と別の僕は言う。でも僕が本当にしたいのはそんなことではないんだ。僕はこれまで「なりたい自分」に焦点をあててきた。有名な作家、誰からも慕われる有名人、出版した姿。。。そして足がすくみ、そんなのは本当にできるとは思えない、第一、継続して書くことすらできないじゃないか、と僕はいつも言い聞かせてきた。そして僕はいつも、普段の生活に戻る。平凡だけど給料が継続して出る仕事に。趣味と言う名の中国語やヨガに。自己啓発という名の瞑想に。友達を作る名目のイベントに。本当にしたいことと向き合うことをやめて、今自分に出来ることに戻る。結構なことだ。何も問題はない。

けど、それで僕は満足してきたのか?否、だ。本当に満足できているのなら、なんで仕事にやる気を失い、新しい趣味を探し続け、人生の意味を問いかけ続けているのだ。なんで何をすれば自分が充実するのか、未だにわからないのだ。僕の僕に対する本当の義務は仕事をすることでも誰かを見つけて結婚することでも趣味を極めることでもない。自分の中に潜んでいる巨大な何かを掘り起こすことだ。

何かは僕にもわからない。でも僕は掘り起こさなければいけない。それは僕にしかできない。どうやって?巨大な化石を想定して、綿密な計画を立てて、道具を一通り揃えるのか?いや、それはもうすでにやった。なりたい姿を想像することも、考えをぐるぐる回すことも、参考書を買いそろえることも。

そんなのは必要ない。掘るんだ。何が出てくるかわからない。何も出てこないかもしれない。でも掘り続けるんだ。その何かから信号が届いているうちは。掘って何も出てこない場合は休憩してもいい。でも続けるんだ。誰のためでもない、自分のために。出土品は誰かにあげてしまえばいい。いや、やがて出てくるであろう巨大なものですらあげてしまってもいい。なぜなら出てくるものを所持することが目的じゃないからだ。それを出してやること、それが目的なのだ。

掘るんだよ。掘り尽くした時は、きっと自分にわかるはずだ。掘り尽くすまで、掘るんだよ。

求められる「コミュニケーション能力」とは何か

日本企業が入社してくる若者に求める第一のスキルはコミュニケーション能力であるそうです。なにごとにつけてもあやふやな昨今の企業事情において、この点は数少なく、揺るぎないポリシーになっているようです。

一見、もっともらしい主張のように思えます。どんな企業であれ、人が集まってできあがった組織ですから、仕事の基本は他人との意思疎通(コミュニケーション)になります。その意味では、「コミュニケーション能力」が重要なのは確かにそうでしょう。

でも、どうしても香ばしいにおいが漂ってきて、無視できません。何かが現実にそぐわないのです。その何は、「コミュニケーション能力を求める側のオヤジ集団にコミュニケーション能力が欠如している」という点に尽きるでしょう。どの口がコミュニケーションなどと抜かすのですか?

日本企業のおじさん達が、世界中で一番意思疎通のとれない集団であることはトラブルの事例をみたり定年離婚の件数をみるまでもなく、実際に彼らと仕事をしてみた方は自明でしょう。彼らには「自分の言いたいことを相手に正確に理解してもらうまでが意思疎通なのだ」という概念がありません。そもそも自分の言いたいことを把握できていない場合が多いし、相手に理解してもらうための努力もできていません。日本組織で長く勤め、そして人事権を握るような立場の人になればなるほど、相手(下々の社員)に自分の意を汲み取ってもらう意思疎通のやり方に慣れきっているはずです。おじさん達が持っているのはコミュニケーション能力ではなく、阿吽の呼吸という美名の裏に隠れた古いしきたりです。

そう考えると、謎の「コミュニケーション能力」というキーワードの正体が明らかになります。これは「俺たちの言いたいことをうまく理解して、手足のように働いてくれる、便利で生きのいい若者が欲しい」という中高年の願望をスローガン化したものでしょう。「空気を読め」ですね。勘違いした若者が「コミュニケーション能力」を、お互いに依存しない自由で現代的な意思の疎通だ、そうか息苦しくなさそうだ、と勘違いして入社してくる可能性もある、という半ば詐欺的な効果もありそうです。

そもそも、「コミュニケーション能力」という言葉がすでに、「もっともらしいけれど実はあいまいな言い方でしか自分の欲しいことを表現できない中高年」の立ち位置を見事に、鮮明に、誤解のしようがないほどくっきりと映し出しているではありませんか。言葉遣いは本当に人の真の姿を炙り出すなあ、と感心している次第です。

Koboの初期動作不良から見える箱庭モノ作り文化

少し前の楽天Koboが「動かない」と炎上した件は考えさせられました。ことあるごとに、「説明書が役に立たない」と書かれています。説明書を作ることを生業としている人間として、これは本当に説明書担当が気の毒になります。

おそらく本当の原因は、説明書ではなくて機器が思った通りに動かなかったことだろうと推測されます。説明書がぺらぺらでたいしたことが書かれてないのは、アマゾンのKindleも同じだからです。説明なんかいりません、すぐに使えますよ、が売りだから説明書を薄くした、それは楽天の戦略として正解だろうと思います。(アマゾンの物真似をするという意味でも、純粋に使いやすい機器を求めるという意味でも。)

Koboが機械単体で完結する製品であったならば、多分購入初日に動作しない、などというお粗末な事態は起こらなかったと思います。なんといっても日本企業のやることですから。ある完成形をイメージして、そこに向けて問題を排除していく作業では、日本企業にかなうものはいないだろう、と思います。ファイナルファンタジーシリーズのような複雑怪奇なゲームソフトを、バグらしいバグ抜きで出荷できるお国柄が、なぜ機器の初期設定ができない騒ぎを引き起こすのか。

思うに、Koboという機械が「箱庭」ではなく「公園」であるのを理解していなかった、が正解だろうと睨んでいます。「箱庭」は単体で世界が完結している製品を指します。外部とつながることはありますが、切れ目がはっきりしているため、自分の領分では全てが明確に役割づけられています。冷蔵庫やテレビ、あるいは旧世代の電子リーダーなどもその範疇に入ると思います。そこでは、品質管理は疲れるけど、やりやすいでしょう。ルールから外れたものをチェックすればいいだけですから。

「公園」は世界と交わることで初めて成り立つ製品です。外部と常につながっており、常に他者が訪問し、全てが決められた通りに動くなんていうことはありません。(パソコンは常に外部と接続している、と思いましたが、OSという外部接続担当部品が全て外国製なので、ハードを担当している日本企業はやはり箱ものを作っていると思います)Koboはまさに公園型製品です。機器とユーザーとサービスが有機的につながって初めて底力を発揮する(はずです)。しかし、ネットの向こう側にいるユーザーが「想定外」の行動を取り、火を消すのに四苦八苦したのでしょう。

この問題を、ハード、ソフト、ヒト、サービス全てを含めた「世界」を動かすのは、機械のバグを取る作業の10倍難易度が高いのだ、と取るべきでしょうか?僕は、箱庭と公園の品質管理は全く違う作業なのだ、と考えています。日本的な品質管理など絶対にできないだろうアメリカ企業のアマゾンがうまくやれているのだから、回答は従来の箱庭品質管理の延長線上にはないはずです。

箱庭を管理するときに行うのは「決められたこと以外はしない」です。公園を管理するときに必要なのはその逆の態度で、「禁止されていなければ何をしてもいい」ではないでしょうか。そうした開放的な世界では、一定の行動を想定して、それにあわせて動作するように作るのではなく、やってはいけないことが起こった際の防止策のみ施して、あとは好きにしてください、というふうに発想を変える必要があるのだと思います。

日本がどうして箱庭製品が得意なのかといえば、職場環境を見れば一目瞭然ですよね。「決められたこと以外はできない」ではありませんか。便利で近代的で清潔なのに感じるあの独特な窮屈さは、そこから来ているのだ、と台湾で働き始めてから僕は「公園」的に「禁止されていること以外は何をしてもいい」環境で働き始めて気がつきました。壊れにくく、閉じている日本製品は、日本の生活環境のコピーだった、と僕は今では考えています。そして、決められたこと以外の事態が決められたこと本体を浸食するとき、箱庭型モノ作りは脆弱さを露呈します。原発事故だってそうでしょう。

アマゾンが「誰が使っても思い通りに動作する」Kindleを作れたのは、「公園」型の仕事環境が得られるアメリカの影響が大きいのではないか、と勘ぐっています。閉じずに、アメーバのように外へ広がるネットワーク系の製品は、同じように常に流動する生活や仕事環境と接していて初めて作れるのでしょう。楽天は英語を公用語にしたけど、さすがに公園文化を社内に作るところまではまだできていないのでしょうね(作る気があるのかどうかは別の問題です)。

箱庭から公園へ:この潮流は世界的なもので、日本企業もそう変わらないと生きていけない、と言われていますが、それでも端から見ると何もせずに箱庭を作り続けて死んでいく企業が多数見えるのは、結局僕たち一人一人について、自分の生き方を変えるのは不可能に近いほど難しい、という身もふたもない真実を見せてくれています。

灰色な世界で白を叫ぶ

少し前の話ですが、バットマンの最新作の上映初日に、映画館で銃が乱射されて数十人の人が命を落としたり、けがを負いました。こういう事件が起こるたびに、「銃をなくせ」「いや、必要だ」という議論が起こります。

僕の感想では、必要なのは「銃を撤廃すること」ではなく、「簡単に銃を手に入れられなくすること」なのではと思います。銃を持つのは自衛の権利を保つためだ、というのは理屈ではわかります。しかしそれが「簡単に機関銃を数丁購入できる」現実に飛躍しているのが悲劇なのではないでしょうか。自動小銃(アサルトライフル)はassault=攻撃の名の通り、自ら殺傷するための道具です。自衛のため、ならばなぜ攻撃に特化した道具が簡単に手に入るのでしょうか。

原発撤廃にしろ銃規制にしろ、「なくせ」「いや存続だ」の二者択一に話がずれてしまうのが、いつももどかしく思います。中国とのいざこざについても同様です。世の中、二元論でけりがつくような単純な問題はどんどん減っていき、全てが混沌とした灰色の中にいるような感じがします。濃淡はあれど、どこまでいっても真っ白にならないこのもどかしさ。だからこそみんな、「白」を求めて世界を二種類にぶったぎろうとする。あたかも、どうにもしみがとれない自分の人生を他の何かできれいにするかのように。

ゲイ(レズ)の友人と、このことについて語ったことがあります。彼女は20代の前半まで普通にボーイフレンドを作って生きていましたが、あるときに女友達に誘われ、それ以来「目が覚めて」今にいたっています。「世の中には完全なゲイもストレートもいやしない」が僕らの一致した見解です。全ての人間はバイセクシャルであり、どちらの性向がどれだけ強いか、だけなのだと。僕らが住む世界には「100%」などありえないのだ、と受け入れて生きる彼女からは、抜けるような開放感がにじみ出ます。(余談ですが、彼女の故郷である南アフリカは西欧社会ですが宗教の力が強く、台湾ではのびのびとできているようです。アジアは伝統にしばられ、西洋は寛容だ、のステレオタイプが通用しない一例ですね)

戻って、世界を縦割りでなく、刻々と変化するグラデーションでとらえ、自分もまた常に変化し続ける存在なのだ、と受け入れて生きていたい、と思います。その意味で、白か黒か、と問い詰める議論は、たとえどんなに正しそうに見えても、最初から破綻しているのではないか、と感じています。この灰色観には、良い点もあります。完璧な白がないということは、完璧な黒もない、ということです。いつも不安が残る、ということはいつも希望が存在する、ということと同じなんだ、と考えると(実際、自分の経験から言ってもこれは正しいです)、少し肩の力が抜けます。

追記:銃規制について、クリス・ロックのコントは面白いながら、一理あります。

You don’t need no gun control.
You know what you need?
We need some bullet control.
Man, we need to control the bullets, that’s right.
l think all bullets should cost $5000.
$5000 for a bullet. You know why?
‘Cause if a bullet costs $5000 there’d be no more innocent bystanders.
That’d be it.
Every time someone gets shot, people will be like, ”Damn, he must have did something.
”Shit, they put $5000 worth of bullets in his ass.”
People would think before they killed somebody, if a bullet cost $5000.
”Man, l would blow your fucking head off, if l could afford it.
”l’m gonna get me another job, l’m gonna start saving some money…
”and you’re a dead man. ”You better hope l can’t get no bullets on layaway.”
So even if you get shot by a stray bullet… you won’t have to go to no doctor to get it taken out.
Whoever shot you would take their bullet back.
”l believe you got my property.”

概要を日本語訳にすると、こんな感じです。

銃規制なんかいらねえよ。いるのは弾規制だ。弾一発につき5000ドルにすりゃいいんだ。無関係な人間が撃たれることはなくなるぜ。誰か撃たれるたびに、「よほどのことしたんだろ」「ケツに5000ドル分も弾をぶち込まれたそうだ」って皆うわさするぜ。弾に5000ドルかかるなら、分けも無く撃つ奴はいなくなるな。「金さえありゃおまえの頭を吹き飛ばしてやる」「仕事を見つけて金を貯めるからな。そうすりゃお前をぶち殺せる」てな。運悪く流れ弾に当たっても、医者に見てもらわずにすむからぜ。撃った奴が弾を取り返しにくるからな。「俺の持ち物を返せ」てな。

オスプレイへの反対論に見える空気

オスプレイという中年オヤジのコスプレのような危ういネーミングの軍用機が本当に危うい、と一時期話題になりました。(オマン国をオマーンにしたように、オスプレーにすれば「御スプレー」と、意味不明ながらも安全地帯なネーミングに落ち着くのではないか、と妄想が膨らみます。)

オスプレイという飛行機は飛行機とヘリコプターの混血児のような独特の形状をしており、事故を過去に何度かやらかしているそうです。ヘリコプターのように垂直離着陸が可能で、プロペラ機のように高速で移動できる、いいとこどりの形態であり、いいとこどりの宿命として、事故が増える、という側面があるのでしょう。本当に危険かどうかについては僕はコメントしません。アメリカの軍隊で実際に運用されているので、未知の危険物を日本へ実験台として売りつけているわけではないだろうとは思います。

僕が違和感を感じるのは、「危険だ、排除しろ」という感情的な反対論か、「米国に従うのは仕方ない」の厭世論の影で、オスプレイという機種の斬新さがあまり強調されていない点です。技術立国として鳴らす国で、不自然なくらい新規技術が注目されていません。これが日本初の技術だったら、今頃「新しい技術なんだから、長い目で見守ってほしい」という声の方が大きかったんじゃないかな、と思います。

オスプレイへの反対であふれる世論は、現状打開を欲しているのに少しでも危険な要素は排除しようとし、結果としてあらゆる可能性をつぶしながら現状維持を続けてずぶずぶ衰退を続ける日本という国のありように重なって見えてしまいます。もちろん、理性的に物事を考えようとする人も多いのでしょうけど、感情論の音量が大き過ぎるな、と感じている次第です。(念のために、オスプレイを導入すれば何かが打開できる、などと考えているわけではありません)

仕事がなくなる原因と、仕事が増える原因は同じかも

先進国で失業率が高止まりしていることが話題になります。スペインでは若者の失業率が50%になった、というのはちょっと現実離れしています。10人いたら5人に仕事が無い、というのはさすが超現実主義のダリを輩出した国だ、とまで感じてしまいます。

しかし、僕が通っているスペイン語教室の先生を見ているとそんな話も現実味を帯びてきます。彼は25歳、スペイン語に加えて英語も当然扱え、台湾での生活が二、三年程度ですが既にペラペラに中国語を操ります。言語のみならず教養も豊かで、ユーモアを上手に扱い、それでいて大人の態度を保ち、しかもイケメンです。ありとあらゆる意味で能力が高い彼が、世界をまたにかけるビジネスマンどころか、語学学校の教師をやっているという現状が、欧州の危機を体現しているような気がします。(彼は自分の意志で台湾に来ているので、落ちこぼれているわけではないのですが)

ここにいたってなぜ仕事が突然ないのだろう?今まで真面目に仕事してきただけなのに、というのが僕らの正直な感想でしょう。多分、きちんと仕事をしてきたからこそ仕事が無くなってしまうのです。仕事の醍醐味は、改善にあると僕は感じています。今より何かをもっとよくできる、という実感が仕事の面白さだと、以前書きました。その当然の帰結として、世の中の仕事がごく少数の「簡単な仕組みを作る側」と大多数の「仕組みを簡単に回す側」にわかれつつあるのだと思います。それが一番効率がいいんだから。

また、全てがハイスペックになってしまっているのもあります。僕が大学を卒業した10数年前、右も左もわからない学生を拾って、数年かけて一人前に育ててくれる企業はたくさんありました。いまや全てが即戦力です。経験のない人間に経験を求める理不尽さは僕は想像すらできません。昔に比べて、一人の人間がこなせる仕事の量も範囲も、とんでもなく増えているようです。

この、全てに専門性とロボットのような完璧さが求められる現状を作り出したのは、僕たち自身です。まじめに仕事を行い、改善を重ねた結果が、完璧さを最初から持っていないと何も出来ない窮屈さを作り出したのです。僕はそのこと自体を否定も肯定もしません。単なる現実ですし、窮屈さの裏でとんでもない快適さをもたらしたことも承知しているし、三丁目の夕日の時代に戻れると言われてもきっぱりと嫌だ、と言えます。

それでも現状は自分たちの努力の当然の帰結だ、と肝に銘じておきたいのは、失業の恐怖に思いが巡るとき、つい無能な政治家やグローバル化や利益第一主義の経営者など、赤の他人を責めたくなるからです。自分の精神的な健康のためにも、無駄な責め合いをしないためにも、一歩立ち止まって、そもそもは僕たち一人一人が良かれと思って行った行動が今の社会を作り、そこに高い失業率という副作用がかかったのだ、ということを常に思い出しておきたい、と考えた次第です。

希望もあります。僕たちの、仕事に対する姿勢は昔と変らないと考えています。あくなき改善です。ひょっとしたら人間に基本的に備わっている動機なのかもしれません。この姿勢が今の超効率社会を作ったのなら、その副産物の失業の問題が十分に大きくなったら、それに対して「改善」の姿勢が働き、新しい仕事のあり方が徐々に作られていく、そんな予感がしています。「改善」により苦しくなり、「改善」により救われるけど、「改善」のありようは同じ、でしょうか。

「日本人」はいまやどこにいるのだろう

尖閣諸島に関する政治家発言にしろ、竹島騒動にしろ、隣国との関係が怪しくなりつつあるように見えます。オリンピックもあり、普段新聞代わりに眺めているツイッターも「日本」の二文字で埋まり続けました。

ジャーナリストの佐々木俊尚氏が最近のインタビューを受けた感想を以下のように述べています。

作家の村上龍氏も以前から繰り返し述べていることですが、「日本」という国家や「日本人」という民族をひとくくりにして物事を考えることは、意味が無くなっていると僕も感じます。(元々意味が無かったけど幻想で持ちこたえていたものが、メッキがはがれてきている、というのが正解だろう、と考えています)確かに、探せば「やっぱり日本人だなあ」という共通項は見つかります。押しが強くない、小ぎれい、外国語が下手、などなどですね。でも、それらは表面的なものであって、物事の考え方、行動の取り方、人生の組み立て方、というもっと踏み込んだ議論をしようとすると、とたんに白々しくなってしまう、と僕は感じてしまいます。

たとえ同じ日本語を話して、同じ民族性を持っていても、地方公務員、外資系企業に勤めるハーフ、バイトが主な収入源のニート、伝統的な製造業の中間管理職、離婚後に一人で子供を育てる女性、海外に出て現地企業に勤める人間(私)にどんな「共通項」があるのでしょうか?彼らは全く違う人生をそれぞれ生きており、たとえ一ヶ所に集められてさあ話をしてください、と言われても何についてどう話をすればいいのか途方に暮れてしまうでしょう。逆に、同じような経歴を持つ人間同士であれば、コミュニケーションがとりやすいのは僕も日々実感しています。日本の大企業に勤めるかつての同級生とは何も話すことがないと思ったりしますが、南アフリカから台湾にやってきて起業した友人とはツーカーで話ができます。

今や「国家」や「国民」を意識する状況は、「敵」が存在するという前提の元でしか起こりえないのではないか、と思います。オリンピックだって、基本は戦いです。日本も、日本人も、幻想の敵に対抗する幻想の集団としてしか存在していないのだな、とつくづく思います。だからといって実体が無い、と言い捨てることができないのはバルカン半島での悲惨な内戦などで歴史が証明していますが。最後には理想ではなく実益を選択する我らアジア人の特性のおかげで、日本/韓国/中国では戦争、という事態はやってこないでしょうが。

もはや人為的にしか国家や国民を意識できないので、今後僕は「日本」という言葉が出るときは「いったい誰が何のためにその言葉を使っているのだろう?」と発言者の意図を探るでしょう。何も考えずに「日本」「日本人」(日本を中国、アメリカ、欧米、などと置き換えても同じく)を連呼する人の言うことは、話半分で聞くことになりそうです。裏の意図を隠してその言葉を使用する人は、警戒することになります。

ネットによって地方は活性化するのでは

一週間ほど台湾南部の都市、その名も台南市に滞在していました。端から端まで自転車で30分ほどで横断できる、コンパクトな街です。昔ながらのお寺や商店街に加え、近代的なビルやデパートも建ち、小ぎれいな喫茶店やギャラリーなどもそこかしこにある、バランスが整った場所でした。東京から福岡に行くと感じる「小振りなちょうどよさ」と同じ感覚です。

台北との最大の違いは都市の構造や規模ではなく、人の有り様です。とにかく皆、のんびりしてリラックスしているのです。歩くスピードが違いますし、人と人との距離感も違います。切羽詰まった表情をしている人もあまり見かけません。台南の友人(非アジア人)は「台北に行くと、着いた瞬間に息が詰まるの」と言っていましたが、その感じを僕も帰りの便で体験しました。東京から台北に移動した際に、のんびりしていていいなあ、と感じたくらいなので、台南ののんびり加減は日本で言えば沖縄の雰囲気に近いと思います。

数日滞在しただけで、「ここに住めたらいいのになあ」と自然に思えてきました。台北という大都市(といっても日本で言えば名古屋くらいの大きさ)に住んでいると、ただ「いる」だけで体がストレスを感じている、という事実に気がつきません。台南には雄大な自然も、くつろげるカフェも、気持ちいい公園がありますが、台北にもあります。それら特定の場所ではなく、「空気」にリラックスが含まれているのが決定的な違いに思えました。

これまでなら、「住みたいなあ」の次に「でも仕事が無い」と、一秒程度で理想の生活図は打ち砕かれていました。でも、もしネット経由での仕事が進み、住む場所を自由に選べるようになれば、仕事先に合わせて住処を選ぶ制限はなくなります。同じことを考えているのは僕だけではないはずです。

もはや大都会以外は死ぬだけか、と僕は最近まで思っていましたが、近い将来、「地方都市」は復活すると半ば確信しました。リラックスは地方では空気に含まれていますが、大都市では金を払って得るものです。(ストレスをためて金を稼ぎ、ストレスを発散するために金を払う、永久機関のようなものかもしれません。)「田舎」が復活するかどうかはわかりませんが、少なくとも僕にとって、収入源さえ確保できれば地方都市へ移動、というのはかなりの確率で起こると考えています。

安値のサービスに未来はあるのだろうか

サイゼリヤというファミリーレストランチェーンが大繁盛しているようです。俺のフレンチ、というフランス料理チェーンもすごい、と聞きました。(本当に何もわかっていません。台湾で浦島太郎と化しているようです。)徹底して無駄なコストを省いているのが原因だそうです。再ゼリアについては以下の要領です:

「新しい仕組みをつくるときは、『この業務はなくせないか』『何かに置き換えられないか』を考えます。扱う品目と作業を減らしてシンプルにすることで、どの店舗でも、どのスタッフでも均一なサービスが提供できる。当社の基本姿勢は、製造業と同じなんですよ。『売る、儲ける、努力させる』ことから『売れる、儲かる、方法を変える』という仕組みづくりへの転換を目指しています。もはやチェーンストアでは常識ではないのでしょうか」

目指せ美味しいマクドナルド、ということでしょうか。こういう話を聞くたびにいつも思います。いったい誰が幸せになっているのだろう、と。

現役引退後のリハビリ/小遣い稼ぎや、正社員までのつなぎとしてなら、こうした飲食店で働くのはいい話かもしれません。汗をかくし給料も安いけれど、とにかく人と一日中接するし、全てシステム化されているので複雑な問題を自分で解決する必要もありません。マクドナルドで働くことは、「ステップ」としては気持ちいいことのようです。将来の期待さえなければ、決められたことを繰り返し行うことはそんなに悪くなさそうです。

でも、失業率が高止まりな今の、そしてこれからの日本で起こるのは、こうした激安飲食店でしか職が得られなく、従って仕事人生の大半をシステム化され、無駄を取り除かれた環境で同じことを繰り返す人が大量に発生することです。細とを仕事を10何年続けてきて、僕は仕事の面白さとは、「自分は前より何かを良くできる」という己の力で進歩できる実感だと確信しています。昨日も今日も明日も同じ、いったいそのような人生にどんな充実感が期待できるのでしょうか?

そして激安チェーンで働く人は、選択肢が少ないおかげで、ほかの激安チェーンで消費を行うことになります。サービスを提供する側と、受ける側が、同じ層で成り立つ構図がここには見えます。安くてうまい、と利用するサービスが実は自分の人生を削って生み出されるものだとしたら、それは自分の体の一部を切って食べる行為と似通ってはいないでしょうか?

僕たちは常に効率の良さを追求しています。仕事の醍醐味とも言えます。(なので、サイゼリヤでシステムの効率化を担当するインタビューの受け手が本当にうれしそうなのは、そうだろう、と思います。)でも、僕らが本当に欲しいものは無駄の無さ、ではありません。何かを良くできる、という改善の実感、もっと大げさに言えば自分が生きていることには意味がある、と実感できることです。

たとえ無駄が多くても、値段が高くても、そしてチェーン店より味が少し劣ろうとも、個人経営の店に通い続けたいし、個人と仕事をしたいな、とぼんやり考えています。