未来を予測する方法:予測せず、観察する

将来がどうなるのか不安でたまらないこの頃、「xx年にはこうなる」という予測ものの記事にすぐ飛びついてしまいます。でもそうした記事の大半には価値がなく、すぐに消えていってしまいます。2100年には日本の人口は半分になってしまう、どうする、などと言われても、そもそもその頃には僕らは死んでるし、第一20世紀初頭の人が21世紀の未来など絶対に想像できなかったように、そんな議論は時間つぶしでしかないのだと思います。

僕らに必要なのは100年後でも、いや10年後でもなく、1年後にどうなっているかを予想する能力です。それは楽しくもなんともない作業です。文字通り明日の予想なんて、天気予報みたいなもので夢がありません。それでもそれが必要なのは、生きる必要があるからです。1年後にどうなるかを予想する能力は、絶え間なく変化が続くこれからの時代において必須になるでしょう。(「未来予想」を売り物にする記事・コンサルタント・評論家の真贋を見分ける方法は、1年後の未来を語れるかどうか、で決まりそうです。)

ではどうやって、未来を予想すればいいのか、ですが、やることは「予想」ではなく、「観察」だと思います。映画「マトリックス」のネタ元ともなった現代SFの古典、「ニューロマンサー」を書いたウィリアム・ギブソンが言う通り、未来はすでに存在しているからです:「未来はすでに到来している。一度にやってこないだけだ」

The future is already here – it’s just not very evenly distributed.

老人の数が増えすぎて福利厚生が破綻するシナリオは日本が、金融操作が暴走する悪夢はヨーロッパが、極端な格差社会の現実は中国が、と国家単位でも将来の姿を見せてくれている他、アパートを複数人でシェアする生活、自宅で野菜を「生産」する方式、一生引退しない生き方など、局所的にいろいろな試みが多く始まっており、どれが未来の主流になるかは別として、未来の可能性はほぼ全て、発芽しているはずです。

「未来予想」に必要なのは豊かな想像力よりも、鋭い観察眼であり、現在発生している無数の事象から、次の巨大なうねりに変化する流れをいかに読み取るか?が勝負(のようなもの)になるでしょう。

現在起こっている「プチ・トレンド」の一覧を見るなら、この本「Microtrends」がおすすめです。(和訳もあります)ぜひどうぞ。数年前に出版された本ですので、その当時は「プチ」だった現象が、今や主流になっている事例も数多くあります。ぜひ。

国家単位でものごとを考える時代は終わったのでは

竹島と尖閣諸島にからんでもう一言。領土について皆強い思い入れがあるようだけど、本当でしょうか。竹島にしろ、尖閣にしろ、僕は住んだことも、訪れたことも、見たこともありません(このエントリーを書くために、Wikipediaでようやく写真を見たくらいです)。それらが話題になっているのを知っているだけで、ニュースにならなければ、普段は何の思い入れもありません。

竹島や尖閣諸島の問題は、同じ領土問題と言えどもパレスチナ自治区やインドネシアの東ティモールとは完全に異なる点があります。人が住んでいないし、訪れることもない、という点です。(北方領土は人が住めるかもしれませんが、日本人の心理からは消えているでしょう)これらの離島には、心理的に、「故郷だ」と思い入れのある人間がほぼいません。どれだけニュースやツイートで「領土だ」とお互いが主張しても、面子の立て合いにはなっても、感情がこもった戦いにはなりえません。(それが幸いな点ではあります)

誰も本当は思い入れなどないはずの土地がなぜ焦点になり得るのか。普段愛読している、橘玲氏のブログエントリーにこうあります。

しかし国益のなかに、ただひとつだけ国民の全員が同意するものがあります。それが領土です。

「北方領土は返ってこなくていい」とか、「日中友好のために尖閣諸島は中国に割譲しろ」と主張する日本人はいません。国民の利害が多様化し、政治的な対立が先鋭化するなかで、領土こそが国家をひとつにまとめるかすがいになるのです。

あらゆる議題が結局は利害関係の異なるグループ間の調整になってしまう現代国家において、領土(主張)問題だけは反対する人間がいない、そのために国家が存続する限り、永遠に政治の道具として利用され続ける、ということだと理解しています。

僕自身は、領土問題の「寿命」は案外短いのではないか、と考えています。「国家」でものごとを処理する時代が、21世紀中に終わるだろうと思うからです。幻想の理想故郷としての国家の名残は今世紀を生き延びるでしょうが(海外に住む日本人が感じる愛国心のようなものでしょうか)、「国」という単位で世界が分割され、統治される時代は徐々に消滅するでしょう。

国境が消える、という意味ではありません。国家の形は存続するでしょう。ただ、それが僕たち一人一人のありようを規定する装置とは機能しなくなるということです。「僕は日本人だ」という言葉を発するか、聞いたときにどれだけ自分の心が震えるか、という点です。

僕自身は数年間台湾に住み、様々な国家、文化、言語の人と接するうちに、日本人というアイデンティティはもはや外部から質問されないと発動できないくらい薄くなりつつあります。たとえ日本国内に住んでいても、混血や移民が進むにつれ、「日本人」としての一体感は薄まるばかりでしょう。「日本人」の掛け声はしばらく高まり続けるとは思います。自分を規定する縛りがなくなることが不安な人は、声を荒げることで幻想の「日本人」を維持しようとするでしょう。だがそれは、不安で空虚な内面の裏返しという側面が強いと考えています。失われつつある「正しい日本語」に対して警告を鳴らすように、自分たちが頼りにしてきたものがなくなりつつある不安、それを映し出す鏡として、国家とその領土を巡る問題は続くでしょう。

竹島のニュースなんて内心ではどうでもいいことなんかにとらわれず、どうやって自分と自分が大切にする人たちが生きのびていけるか、そのことだけを考え続けよう、と僕は思います。

追記:貧富の格差が拡大して金持ちと貧乏人に階級がわかれ、国家という線引きがあまり意味をもたなくなる未来は、地方毎に領主の支配下で庶民が暮らしていた中世の世の中に世界が逆行していくかのようです。20世紀後半になって簡単に移動ができ、意思疎通が瞬時に行えるようになり、自分の人生を選べるようにようやくなりました。その結果、封建的な世の中に動いていくならば、それが僕たち人間が本来欲している姿なのでしょうか?なんか不気味な想像がわいてきたので、今日はここまでにします。

日本語が乱れている=こんな乱れた世界から逃げ出したい

台北には紀伊国屋書店があり、時たま寄って面白そうな本を物色します(割高だし、最新本はあまり置いていないので、実際に買うことは少ないのですが)。日本語を熱心に勉強してくれる台湾人のお客さんへのサービスか、語学の学習本とは別に日本語についての書物の専用コーナーもあります。そこでいつも気になる種類の本があります。「正しい日本語の使い方」の類です。僕にはどうしても、「懐かしい昔の日本語の使い方」に見えます。どれだけ崩れていようとも、今現場で使われている日本語こそが、正しい日本語だろう、と考えているからです。

そこへ強力な援軍が現れたので紹介します。Kevin KellyというWired誌の創刊者が紹介しているデータ(の日本語訳)です。ここが肝心な点です。

Microsoft is running a n-gram project on Bing and they found out that the ten-thousand most commonly used words in English (on the web) change by 10% over about a year.

マイクロソフトは、Bing(ビング)でNグラムプロジェクトを実施している。それによれば、(ウェブ上で)最もよく使われる英単語の上位1万語は、1年余りの間に10%が入れ替わるという。

結果は英語に基づいて行われていますが、日本語にも適用できると僕は思います。英語より日本語の崩れ方のスピードが速いとは思えませんか?約140年前に書かれた「トム・ソーヤーの冒険」は未だに現代の英語と比較しても遜色ない格式を保っており、違和感無くすらすら読めるし、文中の言葉遣いは今でも通用します。しかし、それより後に、20世紀に入って書かれた「吾輩は猫である」の日本語はすごく古くさく感じます。今や誰もそんな言葉遣いをしません。日本語の方が、英語より圧倒的に早く言葉の陳腐化が進行することを考えれば、もし英語圏で1年間に10%の言葉が新しく使われ始めるのなら、日本語はもっと多いはずです。

だとすると、「正しい日本語」を標榜する中高年が恐れる「日本語の乱れ」は、本当だということになります。伝統的な言葉遣いは確かに、恐ろしい勢いでなくなっているのでしょう。

と同時に、彼らが主張する「日本語の乱れ」は、偽物でもあると僕は考えています。言語に「乱れ」など存在しない、と考えているからです。言語とは、僕たちが意思を疎通するための道具です。それ以上でも以下でもありません。意思を疎通するのが目的であり、それに応じて形を自由自在に変えるのが言語の役割です。意思疎通が成立している限り、そこには「乱れ」など起こりようもありません。あるのは「変化」だけです。何かを伝えたい、あるいは伝えたくない、という欲求を誰もが持っており、それに応じて最適な言葉の組み合わせを用いているだけです。

結果として、意思が伝わらないという事態は起こりうるでしょう(現在は、かなり多く発生しているでしょう。)でもそれは言語が乱れているのではなく、発信者と受信者の間で言語の使い方が異なり、それをお互いが認識していないのが原因です。あるいは、発信者が自分でも自分の表現したこと、したいことを分かっていない場合です。言語は、その時々での発信者や受信者のありようを、正確にくっきりと浮かび上がらせているはずです。

僕は、現在言葉の乱れとして捉えられている現象、あるいはデータに現れた「よく使われる言葉」の入れ替わりは、僕たちのありよう、社会、生き方、それらを全て含む世界の変化の激しさを表していると思います。世界が変わるから、それに応じて意思疎通も変わり、結果として言語が「乱れ」ます。

「正しい日本語を」を取り戻そう、と主張する人たちの姿は、幻想の懐かしい昔に帰りたい、という現実逃避にしか見えないのです。

 

ナショナリズム全般に関して:どうでもいいことなのでは

ナショナリズムについてよく考えます。僕は台湾に7年住んでいます。いわゆる帰国子女なので子供の頃海外で過ごしており、台湾に来る前も外資系企業で働いていました。日本という国になんかなじめないな、と感じて台湾に来た当時、僕は自分がいかに「日本」にこだわっているかに驚かされることになります。

日本人である、ということで嫌な目に遭ったわけではありません(台湾ですから)。「日本」を自ら意識しまくっていたのです。道を歩いて日本人の会話が聞こえるととたんに鬼太郎の父親のように「ビビビン」と髪の毛が逆立ちます。台湾人の会話でさえ、「ルーベン(日本)」という単語が聞こえると速攻で耳がそちらに向きます。日本では大して気に留めていなかったスポーツ選手も、海外で勝利(あるいは敗北)のニュースを見るとどうしても読んでしまいます。

思うに、僕は「日本にあまりなじめない」と自分を規定することで、かえって「日本」という存在を必要以上に自分の中で大きくしていたのでしょう。日本を離れて一息ついたはずなのに、自分のありようはやはり「日本」を軸に回っていたので(好きだろうが嫌いだろうが)、自ら日本の匂いを敏感に嗅ぎ分けていたのだと思います。

さて、それから7年が過ぎ、2012年の夏はオリンピックに竹島に尖閣に中国でのデモと、特にナショナリズムを刺激するイベントが多い印象があります。しかし、それとは逆に、僕自身の反応はずっと醒めたままです。オリンピックでの日本人選手のメダルの数より、金がなければオリンピックに出場できなくなる未来の記事の方に動揺しますし、竹島と尖閣にいたっては「どうでもいい」とまで感じています。7年の間に自分の日本に対する感情(あるいは感傷)はずいぶん変わってしまいました。

感情が負から正に、あるいはその逆に変わるのならまだいいのですが、僕の場合はどうやら日本に対する感情が「減ってしまった」ようです。そしてそのことについて罪悪感も、後悔もありません。むしろ、ようやくか、となんかほっとしているくらいです。

「脱日本」が完成した、という単純なことではないと思います。もしそうなら、僕は今でも「日本を脱出したんだ」と、「日本」というキーワードを使い続け、それにこだわったままでしょう。むしろ起こったのは「日本離れ」よりも「国家離れ」ではないか、と考えています。

僕は中国語を日常的にしゃべり、台湾企業で働き、友人たちの半数は台湾人です。でもどれだけ台湾にとけ込んでいるようでも、僕は「日本人」であることを(悪意の無い)指摘や質問により、普段から意識させられます。最初の頃はそれが不快でした。でも今は、それを自然に受け入れている自分がいます。僕は日本で生まれ、日本の国籍を持ち、台湾に住んでいる。それが自分を作るアイデンティティではなく、単なる事実として心理的に軽く扱えるようになってきたということでしょう。

僕という人間はいろいろな要素で構成されており、しかも日々変わりつつあります。出身国家は大きな要素ですが、それでも、要素でしかありません。国や民族を背負い続けることは、僕という人間の全体の変化にそぐわないのでしょう。むろん、ここで語っていることは僕自身の個人的な経験です。伝えたいのは、「国」や「民族」にこだわりを持つことは必要でないし、ひょっとしたら重要ですらないかも、ということです。結局は、大切なのは自分と周りの人との生活ですから。

受け止め、言葉にしたため、手放す

前回のエントリーからだいぶ日が経ってしまいました。いろいろなことを考えていて、半ば引きこもっていました。ツイッターは欠かさず眺めていたので、引きこもりよりもストーカーっぽいのですが。

正直、最近黙り込んでいた原因は自分の進む方向を決めなければ、あと何ヶ月でこれだけ達成しなければ、何かやるからにはここまでの水準に達しなければ、と自分を追い込んでいたことが原因です。自分には決断する力が足りない、だから方向や目標など大枠を決めてしまおう、そうすれば自分も奮起するだろうし、詳細は自由にできるから、自分を制限するわけではない:ロジックとしてはつじつまがあっているので、やるぞ、と自分にハッパをかけていました。

でも体は正直なもので、頭がハッパをかければかけるほど、体からエネルギーが抜け、ついには勤務時間以外は全て疲れて寝ている、という状態に発展しました。不思議なもので、そういう時には自分が必要としているものや人に巡り会うようになっているようです。結果的には素晴らしい人たちと会い、自分の状況を整理した結果、まずは頭と体をつなげてみました(詳細はいろいろありますが、結果としてやったのはそういうことです)。

分かったのは、自分は目標や期待値をモチベーションにできない、という事実です。他人から認められるのは大好きですが、僕の場合、それはエネルギーにならないのです。期待に応えよう、という願いはいつでもあります。でもそれは、応えられなければ自分に価値がない、という自信の無さの裏返しでした。他人からの期待に応えない→自分は認められない→認められなければ自分には価値がない→自分には力が無く、何もできないから。と、つきつめればそこまで、負の感情の連鎖が走っていたようです。

肝心な点は、そうした他人の期待も自分の思い込みも、全て自分の中で作り出した虚構だと言う点です。誰も僕に「こうしないと嫌いになるぞ」と要求していないし、またその要求があっても、僕は応える必要などないのです。僕は自分の頭の中で架空の「期待する他人」や「力の無い自分」を作り出し、自分にプレッシャーを与えていたようです。まあ、体がへなちょこで拒否して良かったと思います。これで、架空の期待に応えれていたら、今頃努力しすぎて廃人になっていたかもしれません。

というわけで、ブログもこれまで「定期的に更新せねば」と自分を追いつめるえさになり、遠ざけていたのも、あらためようと思います。今後はブログを到達点として考えるのではなく、通過点として捉えることになるでしょう。自分の中に生まれるあぶくのような好奇心を受け止め、それを言葉に変換し、自然に手放す。自分から離れた後、どうなるかにはこだわらず、できるだけ「息をし続ける=受け止め、言葉につつみ、放す」その行動を長く継続することに集中していきます。(手放した後に誰かがそれを読み、楽しんでくれると最高ですが)

おまけ:気持ちも切り替わり、ブログのネタもたまってきたので、そろそろかな、でもどうやって踏み出そう、と悶々としていた頃に糸井重里さんと高木新平さんの対談を読み、背中を押される感じがしたので紹介します。「何したっていいんだよ」です。(前編 / 後編)ああ、あれだけ役に立たないとわかっても自分はまだ目標を餌にしようとしてるのか、と気づき、同時に「やるならいつでもやろう」と軽くなった次第です。

 

海外就職に際して:自分が何を欲しているのか、できるだけ明確にした方がいいのでは

こんなツイートを流しました。

海外就職する理由で多分一番大きいのは、「日本で希望が見つからない」ではないかなと思います。ここでは得られない希望を探しに、海外に行く:べたですけど、僕はそうして台湾にたどりついて、なんてことのない人生だけどこの選択だけは間違っていなかった、と断言できます。個人的な体験ですが。

海外就職セミナーもよく開催されていて、それ自体は素晴らしいのですが、少し注意したほうがいい点があります。「自分は住む国を変えたいのか、それとも日本社会から抜けたいのか?」をはっきり区別してみてはいかがでしょう。なぜかというと、「海外就職」といいながら、海外の日本企業支社への就職が(無言で)前提とされているような、不気味な空気を感じるからです。

日本企業への就職が前提にもかかわらず、それを堂々と言えない空気を感じます。日本を出るのに、日本に頼ることについての後ろめたさでしょうか?あまり健康的では有りません。

僕は、「日本社会」から抜け出そうと希望して台湾にやってきました。なので、現地で職を探す際にも「日本との連絡役」でない職を探しました。そういう職は限られているのは事実です。でも、日本企業や連絡役になると、あのどろどろした人間関係や、意味不明に細かい規則や、無意味に強い同調圧力に逆戻りです。それだけはごめんでした。

「日本社会から抜ける」ことが前提だったので、最終的に見つかった仕事が日本語教師であっても、その目的は達成できます。相手をするのは台湾人か外国人だけで、雇用主も台湾企業です。たとえ聞こえは悪くても、特に好きとも思えない仕事であろうとも(やったことないから来る偏見ですが)、当初の目的は達成できるではありませんか。

国を変えたいだけで、日本企業で働くことになんの抵抗もないのであれば、海外転勤を念頭に入れて日本で就職するほうがあっているのかもしれません。 まあ、個々の選択肢について、何が良いのかはやってみないとわかりません。肝心なことは、もやもやになっている部分は最初からはっきりさせたほうがいいだろう、ということです。そのもやもやしている部分こそが、自分が考えなければいけない大切な箇所だろう、と思うからです(大切=大変、なのでもやもやにしておく方が見かけは楽なんですが)。

語りかけが目的になって、攻撃的な口調が消えた

僕は断定的な口調が好きで、村上龍やめいろまさんのツイートを愛読しています。しかし、自分がブログを書く際は、丁寧な言葉遣いになっています。最初からそう決めていたわけではありません。少し書いてみて、丁寧な言葉遣いのほうがしっくりきたからですけど、なぜなのかな、と考えてみました。

多分、本気で自分の言葉が他人に届いてほしい、と考えているからではないかと思います。以前のエントリーで、日本語ブログは語りかけで、英語ではプレゼンだと言いました。英語で書いているときなど、僕はかなり断定的に書きます。

でも、日本語の際は、僕は「過去の自分に」対して手紙を送っているのです。何も分からずうろうろしていたあの頃の自分に。そうすると、攻撃的な口調は使えません。本当に相手に理解してほしい、と考えているからだと思います。

攻撃的な口調は確かに相手を刺激するでしょう。そして強く断定したほうが、相手も飲み込みやすいのも事実です。でも、そうすると相手は自分で情報を消化する余裕を失ってしまうのではないでしょうか。少なくとも昔の自分はそうでした。

もし僕が、何もわからずうろうろしていたあの頃の自分に対して、「こうしろ」と命令したいのならば、間違いなく断定口調を使うでしょう。そしてその頃の自分は、たしかに頑固親父のように断定してくれる人を捜していました。村上龍はその最たる人です。

でもそれは同時に、自分で考えることを放棄したがっていたからでもありました。考える前に、答えが欲しい:言ってみればカンニングです。そしてその後ろめたさがあるからこそ、よけいに何かを決めつけたかったのだと思います。

語りかけることで、論旨は「ゆるく」なります。相手は頭の中で疑問を生む機会が与えられ、言われたことをすんなり受け取れるかどうか、考え始めます。反論を考えるその作業こそが、(たとえあら探しであろうと)、自分で考えることにつながれば、と思います。(あと、断定的だと、尖ったところについ意識が集中してしまい、ほかの論旨がかき消されてしまいます。炎上ですね)

表現するということは己をさらけ出すこと

とまあ、タイトルには当たり前のことを書きましたが、表現するということは全て、自分を見せることにつながるんだろうと考えています。

以前、自分に分かっていることは他人にもわかる、と書きました。書いたりしゃべったりなどの表現も同じで、自分が発信していてなんか違うな、と感じるものは、確実に他の人にも同じように違和感として伝わるのだろうし、自分がこれだ、と感じたものも同じように確実に誰かに伝わりでしょう(全員とはいいません)。

相手が書いたりしゃべったりした内容を理解してくれる、というのとは少し違うかもしれません。誤解されることはしょっちゅうですし、伝えたいことなんて永遠に100%伝わらない、と僕も思います。それよりも、自分という存在が、等身大で相手には常に見えている、というのが正解ではないかと思います。相手がどう捉えるかは別として、自分が発信している内容から透けて見える自分と言う人間そのもののありようは、たとえ自分が嫌だと思っても確実に相手には届いていると考えています。それでも誤解が起こるのは、相手もまた自分と同じく、現実をすんなりと受け入れるわけではないからです。

ソーシャルメディアやブログのおかげで、僕らは息をするのと同じような感覚で表現を行うようになりましたが、それは同時に自分自身を常に公共の場に晒し続けるということでもあります。僕たちは服を来て歩き回っているつもりでも、実際は素っ裸でいるようなものです。全てが丸見えになっている時代、いったい何を表現したらいいのか、混乱することがあります。そんなときは僕はホラー小説家、スティーブン・キングの半自伝的な物書きの指南書、On Writingを参照します。

Now comes the big question: What are you going to write about? And the equally big answer: Anything you damn well want. Anything at all…as long as you tell the truth.

肝心な問題に迫ってみよう:何について書けばいいのだ?それについては同じように肝心な答えがある:書きたければ何を書いてもいい。どんなことでも・・・真実を書いてさえいれば。

ここで言うtruth=真実は、fact=事実と異なります。真実は、自分にとって本当のこと、という意味です。何を書いてもかまわないけど、自分に嘘はつくな、とキングは言っていて、あらゆる物書きの指南の中で最も僕の心に響いています。この考え方はおよそ表現と名のつくもの全てに適用できる、と思います。何をしてもいいけど、自分に嘘をつくな、ですね。(注意:何をしてもいい、は「何をしても許される」とはもちろん違います)

閑話休題:謙虚なスーパースターの実例

テレビを持たないので、暇つぶしに映像を見る際にはYouTubeのお世話になっています。暇つぶしなので、10分程度で終わるのもちょうどいいですし。最近はLionel Messiという、世界最高のサッカー選手の映像が好みです。この人はおそらくペレやマラドーナを抜いて、史上最高の選手として後世に名を残すでしょう。

通常、名選手というとゴールシーンがハイライトになるのですが、メッシの場合はゴールに至る前の過程こそに魅力が凝縮していると考えています。彼の最大の武器はボールを自由自在にあやつるコントロール力にあり、かつ他のスター選手のように派手なパフォーマンスを行いません。常に最も少ない労力でゴールを狙っているので、彼のゴールはキーパーの逆をついて転がせたり、ふわっと浮かせたり、とあっけないものが多いです(キーパーにとっては最も屈辱を味わされる選手でしょう)。以下、彼のドリブルを堪能してみてください。

メッシが過去の「世界一」と全く異なるのは、その人格です。日本人ですら恐縮したくなるほど、謙虚で人なつこく、常にチームを立てます。チームメイトもまた、彼を愛しているようです。Telegraph紙より:

It does not take long, when talking to anyone who has dealt closely with Messi, to discover an almost awe-struck admiration for the way he handles the unnatural pressures of being the world’s best in the world’s game. “Being the best player in history, he could behave in a different way but he is just such a lovely person, creating a great atmosphere in the dressing-room,” says Gerard Piqué in a tribute reflected by all his teammates.

メッシに近い人物に話を聞くと、誰に聞いてもすぐに、メッシが世界一の選手としての異常な重圧を扱うやり方に畏敬の念を覚える、と答えます。「史上最高の選手ならそれらしく振る舞ってもいいのにそうしないんだよ。あいつは単にすごくいい奴なんだ。ロッカールームでの雰囲気は最高だよ」とジェラール・ピケは言い、他の全てのチームメイトも同意しています。

彼が前人未到の記録を達成し続けるのも、チームがサポートしてくれるからこそなんでしょう。そう考えると、個人に与えられる記録の、いったいどれぐらいがチームの協力によるものなのでしょう。クラブはチームの一体感を高めてくれる選手により注目するでしょうし、世界一の選手が謙虚だ、というのが世界中のサッカー小僧にどれほどの良い影響を与えるか、についても考えが及びます。あと20年たたないとわからないのでしょうけど、メッシという傑物はそのサッカープレーより、人格者として後世に大きな影響を残すのではないか、と思います。(彼のプレーは誰にも真似できないので、プレー自体はメッシ自身と共に引退するだろうと思います)

最後は、彼の生涯を追ったイギリスのドキュメンタリーで締めくくります。英語の勉強にもちょうどよいかと。

必要なのは新しいことではなく、今よりうまくいく方法

久しぶりになりましたが、前回からの続きで。新しく世界を開くときに必要なのは「新しいこと」ではない、と書きました。ではなんなのでしょうか?

それはたぶん、「今よりうまくいく方法」なのです。アップルのデザインボス、Jonathan Iveに再び登場してもらいましょう。

Q: What are your goals when setting out to build a new product?

A: Our goals are very simple – to design and make better products. If we can’t make something that is better, we won’t do it.

Q: Why has Apple’s competition struggled to do that?

A: That’s quite unusual, most of our competitors are interesting in doing something different, or want to appear new – I think those are completely the wrong goals. A product has to be genuinely better. This requires real discipline, and that’s what drives us – a sincere, genuine appetite to do something that is better. Committees just don’t work, and it’s not about price, schedule or a bizarre marketing goal to appear different – they are corporate goals with scant regard for people who use the product.

Q: 新製品を開発する際に目標としていることはなんですか?

A: とても単純です。より良い製品をデザインして形にすることです。今よりよくならないのなら、やりません。

Q: アップルの競合はどうしてそれができないのでしょう?

A: 私たちのやり方は本当に少数派です。ほとんどの競合相手は何か違うことをするか、新しく見せることに興味があるようです。僕に言わせるとそれは根本的に間違った目標です。製品は真の意味で進化していないといけません。それには強く自分を律する必要があり、そしてその自制−よりよいものを作りたいという真摯な本物の欲望−こそが、僕たちを押し進める力なのです。皆で話し合ってものづくりをしてもうまくいきません。問題は値段でも、発売時期でも、新しく見せかけるための広告宣伝でもありません。そういったものは製品を使う人のことを考慮していない、企業側の目標です。

実際、新しい(と見える)ことをやるだけならいろいろなアイデアが浮かんでくるでしょう。別のものを組み合わせてみてはどうか、便利な機能を足してみてはどうか・・・ただ、それだけで結果がついてくるわけではないのはこういった商品が照明しています。

一般的な製品論は横に置いておいて、自分自身の人生を変えたい、と考える際に、僕たちはよくこの「やたらに足す」ことをしてしまいがちです。習い事を始める、自己啓発本を読む、運動する、などなどですね(全て僕も経験済みです)。でも、本質的に必要なのはもっと単純で、「今よりもっとよいやり方」だけなんだろうと思います。

この設問は単純ですが、難しいです。「新しいこと」をやるだけのほうが簡単です。何が今までと違うかは(表面的には)わかりやすいですから。でも、「今よりよい」になると、どうしても「じゃあ今」とはいったいなんなのだ、という問題に行き着きます。それは結局、「自分とは、自分の世界とは、自分の人生とは」いったいなんなのだ、というあまり直面したくない現実に向き合うことになってしまうからです。

新し(そうな)ことをするだけなら、自分と向き合うなどという面倒なことは必要ありません。だからこそ、アップル以外の会社はみなそうするし、僕たちもそうします。新しいだけなら、楽なのです。もっとよくしよう、となると、とたんにめんどくさくなります。でも、そうでないかぎり、世界を切り開くことはできませんからね。