安値のサービスに未来はあるのだろうか

サイゼリヤというファミリーレストランチェーンが大繁盛しているようです。俺のフレンチ、というフランス料理チェーンもすごい、と聞きました。(本当に何もわかっていません。台湾で浦島太郎と化しているようです。)徹底して無駄なコストを省いているのが原因だそうです。再ゼリアについては以下の要領です:

「新しい仕組みをつくるときは、『この業務はなくせないか』『何かに置き換えられないか』を考えます。扱う品目と作業を減らしてシンプルにすることで、どの店舗でも、どのスタッフでも均一なサービスが提供できる。当社の基本姿勢は、製造業と同じなんですよ。『売る、儲ける、努力させる』ことから『売れる、儲かる、方法を変える』という仕組みづくりへの転換を目指しています。もはやチェーンストアでは常識ではないのでしょうか」

目指せ美味しいマクドナルド、ということでしょうか。こういう話を聞くたびにいつも思います。いったい誰が幸せになっているのだろう、と。

現役引退後のリハビリ/小遣い稼ぎや、正社員までのつなぎとしてなら、こうした飲食店で働くのはいい話かもしれません。汗をかくし給料も安いけれど、とにかく人と一日中接するし、全てシステム化されているので複雑な問題を自分で解決する必要もありません。マクドナルドで働くことは、「ステップ」としては気持ちいいことのようです。将来の期待さえなければ、決められたことを繰り返し行うことはそんなに悪くなさそうです。

でも、失業率が高止まりな今の、そしてこれからの日本で起こるのは、こうした激安飲食店でしか職が得られなく、従って仕事人生の大半をシステム化され、無駄を取り除かれた環境で同じことを繰り返す人が大量に発生することです。細とを仕事を10何年続けてきて、僕は仕事の面白さとは、「自分は前より何かを良くできる」という己の力で進歩できる実感だと確信しています。昨日も今日も明日も同じ、いったいそのような人生にどんな充実感が期待できるのでしょうか?

そして激安チェーンで働く人は、選択肢が少ないおかげで、ほかの激安チェーンで消費を行うことになります。サービスを提供する側と、受ける側が、同じ層で成り立つ構図がここには見えます。安くてうまい、と利用するサービスが実は自分の人生を削って生み出されるものだとしたら、それは自分の体の一部を切って食べる行為と似通ってはいないでしょうか?

僕たちは常に効率の良さを追求しています。仕事の醍醐味とも言えます。(なので、サイゼリヤでシステムの効率化を担当するインタビューの受け手が本当にうれしそうなのは、そうだろう、と思います。)でも、僕らが本当に欲しいものは無駄の無さ、ではありません。何かを良くできる、という改善の実感、もっと大げさに言えば自分が生きていることには意味がある、と実感できることです。

たとえ無駄が多くても、値段が高くても、そしてチェーン店より味が少し劣ろうとも、個人経営の店に通い続けたいし、個人と仕事をしたいな、とぼんやり考えています。