「日本人」はいまやどこにいるのだろう

尖閣諸島に関する政治家発言にしろ、竹島騒動にしろ、隣国との関係が怪しくなりつつあるように見えます。オリンピックもあり、普段新聞代わりに眺めているツイッターも「日本」の二文字で埋まり続けました。

ジャーナリストの佐々木俊尚氏が最近のインタビューを受けた感想を以下のように述べています。

作家の村上龍氏も以前から繰り返し述べていることですが、「日本」という国家や「日本人」という民族をひとくくりにして物事を考えることは、意味が無くなっていると僕も感じます。(元々意味が無かったけど幻想で持ちこたえていたものが、メッキがはがれてきている、というのが正解だろう、と考えています)確かに、探せば「やっぱり日本人だなあ」という共通項は見つかります。押しが強くない、小ぎれい、外国語が下手、などなどですね。でも、それらは表面的なものであって、物事の考え方、行動の取り方、人生の組み立て方、というもっと踏み込んだ議論をしようとすると、とたんに白々しくなってしまう、と僕は感じてしまいます。

たとえ同じ日本語を話して、同じ民族性を持っていても、地方公務員、外資系企業に勤めるハーフ、バイトが主な収入源のニート、伝統的な製造業の中間管理職、離婚後に一人で子供を育てる女性、海外に出て現地企業に勤める人間(私)にどんな「共通項」があるのでしょうか?彼らは全く違う人生をそれぞれ生きており、たとえ一ヶ所に集められてさあ話をしてください、と言われても何についてどう話をすればいいのか途方に暮れてしまうでしょう。逆に、同じような経歴を持つ人間同士であれば、コミュニケーションがとりやすいのは僕も日々実感しています。日本の大企業に勤めるかつての同級生とは何も話すことがないと思ったりしますが、南アフリカから台湾にやってきて起業した友人とはツーカーで話ができます。

今や「国家」や「国民」を意識する状況は、「敵」が存在するという前提の元でしか起こりえないのではないか、と思います。オリンピックだって、基本は戦いです。日本も、日本人も、幻想の敵に対抗する幻想の集団としてしか存在していないのだな、とつくづく思います。だからといって実体が無い、と言い捨てることができないのはバルカン半島での悲惨な内戦などで歴史が証明していますが。最後には理想ではなく実益を選択する我らアジア人の特性のおかげで、日本/韓国/中国では戦争、という事態はやってこないでしょうが。

もはや人為的にしか国家や国民を意識できないので、今後僕は「日本」という言葉が出るときは「いったい誰が何のためにその言葉を使っているのだろう?」と発言者の意図を探るでしょう。何も考えずに「日本」「日本人」(日本を中国、アメリカ、欧米、などと置き換えても同じく)を連呼する人の言うことは、話半分で聞くことになりそうです。裏の意図を隠してその言葉を使用する人は、警戒することになります。