国家単位でものごとを考える時代は終わったのでは

竹島と尖閣諸島にからんでもう一言。領土について皆強い思い入れがあるようだけど、本当でしょうか。竹島にしろ、尖閣にしろ、僕は住んだことも、訪れたことも、見たこともありません(このエントリーを書くために、Wikipediaでようやく写真を見たくらいです)。それらが話題になっているのを知っているだけで、ニュースにならなければ、普段は何の思い入れもありません。

竹島や尖閣諸島の問題は、同じ領土問題と言えどもパレスチナ自治区やインドネシアの東ティモールとは完全に異なる点があります。人が住んでいないし、訪れることもない、という点です。(北方領土は人が住めるかもしれませんが、日本人の心理からは消えているでしょう)これらの離島には、心理的に、「故郷だ」と思い入れのある人間がほぼいません。どれだけニュースやツイートで「領土だ」とお互いが主張しても、面子の立て合いにはなっても、感情がこもった戦いにはなりえません。(それが幸いな点ではあります)

誰も本当は思い入れなどないはずの土地がなぜ焦点になり得るのか。普段愛読している、橘玲氏のブログエントリーにこうあります。

しかし国益のなかに、ただひとつだけ国民の全員が同意するものがあります。それが領土です。

「北方領土は返ってこなくていい」とか、「日中友好のために尖閣諸島は中国に割譲しろ」と主張する日本人はいません。国民の利害が多様化し、政治的な対立が先鋭化するなかで、領土こそが国家をひとつにまとめるかすがいになるのです。

あらゆる議題が結局は利害関係の異なるグループ間の調整になってしまう現代国家において、領土(主張)問題だけは反対する人間がいない、そのために国家が存続する限り、永遠に政治の道具として利用され続ける、ということだと理解しています。

僕自身は、領土問題の「寿命」は案外短いのではないか、と考えています。「国家」でものごとを処理する時代が、21世紀中に終わるだろうと思うからです。幻想の理想故郷としての国家の名残は今世紀を生き延びるでしょうが(海外に住む日本人が感じる愛国心のようなものでしょうか)、「国」という単位で世界が分割され、統治される時代は徐々に消滅するでしょう。

国境が消える、という意味ではありません。国家の形は存続するでしょう。ただ、それが僕たち一人一人のありようを規定する装置とは機能しなくなるということです。「僕は日本人だ」という言葉を発するか、聞いたときにどれだけ自分の心が震えるか、という点です。

僕自身は数年間台湾に住み、様々な国家、文化、言語の人と接するうちに、日本人というアイデンティティはもはや外部から質問されないと発動できないくらい薄くなりつつあります。たとえ日本国内に住んでいても、混血や移民が進むにつれ、「日本人」としての一体感は薄まるばかりでしょう。「日本人」の掛け声はしばらく高まり続けるとは思います。自分を規定する縛りがなくなることが不安な人は、声を荒げることで幻想の「日本人」を維持しようとするでしょう。だがそれは、不安で空虚な内面の裏返しという側面が強いと考えています。失われつつある「正しい日本語」に対して警告を鳴らすように、自分たちが頼りにしてきたものがなくなりつつある不安、それを映し出す鏡として、国家とその領土を巡る問題は続くでしょう。

竹島のニュースなんて内心ではどうでもいいことなんかにとらわれず、どうやって自分と自分が大切にする人たちが生きのびていけるか、そのことだけを考え続けよう、と僕は思います。

追記:貧富の格差が拡大して金持ちと貧乏人に階級がわかれ、国家という線引きがあまり意味をもたなくなる未来は、地方毎に領主の支配下で庶民が暮らしていた中世の世の中に世界が逆行していくかのようです。20世紀後半になって簡単に移動ができ、意思疎通が瞬時に行えるようになり、自分の人生を選べるようにようやくなりました。その結果、封建的な世の中に動いていくならば、それが僕たち人間が本来欲している姿なのでしょうか?なんか不気味な想像がわいてきたので、今日はここまでにします。