日本独自の文化

週に2度ほど通っている中国語教室では、一回2時間の授業を 
前半:<会話編>各生徒が自分の近況を中国語で語る雑談の場 
後半:<読解編>市販の教科書やインターネット上の記事を読んでいく場 
とおおざっぱにわけて行われている。しかし話のネタがその場のメンバーにとって興味深かったりすると、2時間が会話だけで終わることも少なくない。もちろん先生は雑談をしながらも正しい用法を伝えたり、例文を作らせたりと気配りを怠らない。スケジュールや内容が特に決まっていないところがお気楽であり、かなり細かいところまで正しい言葉の使い方を学べるところが濃いので結構至福の時間をすごせる。先生と僕が好む話題はなんとなく似ていて、日中での「文化」「言語」「習慣」の相違だ。なのでたまに二人きりの時は100%確実に雑談で授業は終わる。
今日も会話をしていて、先生がふと「中国に行って日本の国学について話したところ、『何それ』と言われた」と、中国から見た日本の文化の捉え方について話してくれた。どうも中国にとって、日本というのは古代から自分たち(中国)の文化を輸入して使っており、近代になって西洋の文化を輸入しただけのところであり、「文化」というものが存在するとも思われていないようだ。
確かに僕が中国人だったら、まず日本のことを「物まね」の国であり、本物の文化は無い国、として捉えるだろう。漢字だって箸だってご飯だってラーメンだって中国がオリジナルなのだから。しかし物まねというより、応用が得意と考えたほうが響きはいいだろうな、とそのように考えて思い当たった。
「応用」こそが日本独自の文化なのだ。
他の国からオリジナルなものを輸入して、それを洗練させる、それこそが古代から現在まで、多分未来にもわたって日本を日本たらしめている要素なのだ。いろいろな人が何百回と、多くは自嘲気味に「猿真似文化」と呼んできた日本の特性がようやく頭でなく、体にすとんと落ちてきた感じで気持ちいい。日本は今歴史上最大の変化の真っ只中にいるけど、この「応用」という要素は恐らく変わることがないだろう。変わることがあるとすれば、それは応用して作り出したものを外へ出すか、出さないかの違いだ。それも「商品として売る」という実利のみを目的としたものではなくて、「相手にフィードバックする」という感謝の気持ちをベースにしたお返しだ(予測というより、そう変わってほしいという願望に近い)。
これまでの日本のやり方は、「美味しんぼ」という漫画でかなり的確にあぶりだされているように思える。
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主人公たちはほぼ毎回、おいしいものを求めて日本各地、時には海外へ足を運ぶ。いろいろなところから食材や調理法を集め、とある対決の場でお互いに作ったものを持ち寄り、時には勝って時には負ける、ということを繰り返す。ここで日本の伝統的なやり方と共通しているのは 1.元となるものは外から取り寄せる 2.それを応用する 3.結果は自分の仲間たちの中で楽しむ(赤の他人が入り込むことは無い) 4.応用の成果は仲間内で完結し、それを取り寄せた元のところへフィードバックすることが無い(そんなこと考えたこともない、というのが正解だろうか)
この漫画に人気があるのは料理についての知識が得られること以外にも、自分たちのこれまでの行き方を肯定してくれている、という要素もあるような気がしてきた。読者は意識はしないだろうけど。その意味では、「冒険をする」と見せかけつつ「長いものにはまかれろ」と説く「課長 島耕作」(今は取締役だったか)と同じ効果を果たしていると思う。
最近本屋を覗いていて、日本の伝統とか、日本古来のもの、とかを探る書物が多いことになんだか違和感を感じていたことについても理由がわかった。彼らは大体において日本独自の「もの」を探しているのだ。日本の言葉、文化、なんだっていいけど要は実体がある程度はっきりと把握できる「日本から発生したもの」だ。外から入ってきたものを取り込んで洗練させることだって、よくよく考えてみればそれこそ世界的に類の無い独自の文化だろうにどうして彼らはそれを無視するかのように「日本的なもの」にそこまでこだわるのだろう、と考えると理由が2つほど思い浮かぶ。
1.日本以外の国や文化を知らない (知ろうとしない、だと思う。だから日本のどこがどう独自で、良いかもわからない)
2.不安なのではっきりしたよりどころがほしい
2の要素が大きいだろうな。自分も多分にその傾向があるが、「応用する能力がある」と言っても、すぐに「オリジナリティが無い」とネガティブに捉えてしまうのでなかなかそのままでは自信を得にくいのだろう。その考え方こそ西洋社会からの影響を取り込みまくっている証拠なのだが。
こうしたことを考えさせてくれる雑談の場は、他にそれほど無いので今の教室の環境は快適だ。