新しい世界を切り開くときは、大量の実験が必要

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仕事が一段落してきて、台湾生活が長いこともあり、日本の状況を知るために、ネット界隈で議論されていることを読んでいます。多くの若い人が、今のやり方から抜けようとしていろいろ努力しているようです。会社に縛られずにネット上で仕事できる道を探す人、新興国で働く道を探す人、学費や医療保険の新しい相互扶助を作ろうとする人、様々です。政府が張り子の虎だったことが震災でばれてしまったので、お上に頼らずに生きる方法はないか、と探っているようです。もちろん、こうした試みの8割方は失敗するでしょう。けど、試みを100回繰り返して1個ものになる、のが新しい世界を切り開くときのルールです。きっと近いうち、戦後の生き方とは違う生き方が確立されるでしょう。

こうした新しい動きに対する僕の立場はこうです:やろうとしていることの是非は重要ではありません。やることが重要なのです。なので、たとえ稚拙だろうが、考えが浅かろうが、別の思惑があろうが、新しい動きが起こった、それは十分良いことだと考えています。

本当にやばいことが起こったらどうする(たとえばファシズムの台頭など)、という批判もあるでしょう。全ての動きが透明に世界中にさらされている今、その動きを判断して必要なら止める力を僕たちは持っているのです。もはや「黒幕」はいません。今はまだ「炎上」という形でしか止める力が見えませんが。(なので僕は炎上が起こることも容認する立場です)なので、逆に自問してみましょう。社会は、僕たち自身が支えているのだ、と。個人的には、戦争につながるファシズムは起こらないだろうけど、新興宗教はさらに台頭してくるだろうと思っています。これについては別のエントリでまた考えを述べます。

その「動き」は本当に新しいことなのか?という批判もあるでしょう。どれだけ新しいことをやろう、と考えても、所詮僕たちの想像力には限界があります。新しいように見えて、古いやりかたの焼き直しや、手抜きだけじゃないか、と外から見えるのはむしろ当たり前なのではないかと思います。焼き直し?車輪を再発明しないかぎり、社会的な活動の内容が昔のものと似ているのは避けようがありません。手抜き?同じ苦労をしなくてすむ、のが日本人が得意だとされてきた「カイゼン」の定義でしょう。

結論は、考えあぐねるより、とにかくやってみることのほうが大切だ、です。ただ、究極に必要なのは「新しいことを行う」ではないだろう、とも感じています。それについては次のエントリーで。

こじつけは日本メディアの専売特許ではない

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前回紹介した、ジョナサン・アイブのインタビューにちなんでもう1本。

「最高傑作はなんですか?」という質問に対して、アイブが「今やっていることが常に最高傑作だと考えているよ」と、禅問答をやる箇所があります。

If he was to be remembered for just one of his Apple designs, I ask, which one would he pick?

There is the long pause. “It’s a really tough one. A lot does seem to come back to the fact that what we’re working on now feels like the most important and the best work we’ve done, and so it would be what we’re working on right now, which of course I can’t tell you about.”

「アイブはこれをデザインしたんだ、と一つだけ覚えてもらえるとしたら、どの製品になりますか?」

長い沈黙が続いた。「難しいね。結局、現在手がけているものが、最高傑作で、最も重要な仕事だと常に感じているんだよ。だから今とりかかっている仕事ということになるかな。何かは言えないけど」

この発言を受けて「今手がけている=Apple TV (またはiPhone 5) のはずだ=次期xxxxxは彼の最高傑作になるかも!」と英語メディアが騒ぐこと騒ぐこと。

CNET:

Speculation abounds over what Ive might have been talking about. Is it the long-rumored iPhone 5, which according to the latest reports, comes with a taller display and a few design improvements to differentiate it from its predecessor, the iPhone 4S? Or is it the highly sought-after Apple television — the device that Steve Jobs said last year, he had finally “cracked” the code on?

アイブが一体何を指しているのか、想像がつきない。長い間噂されたiPhone 5だろうか?最新の報告によると、先代のiPhone 4Sよりディスプレイが長くなってデザインが改良されているとのことだ。あるいは期待が高まっているApple テレビースティーブ・ジョブスが昨年、ついに「突破口を開いた」と発言した製品ーだろうか?

こじつけは日本メディアの専売特許ではないな、と感じます。期待値が大き過ぎるから、たとえわかっていてもみんなこじつけてしまうのでしょうけど。記事を書く前に、ある事件に対する態度を決めてしまい、それそった内容で仕上げるのは日本だろうが外国だろうが関係なく、人間の本性だと思います。要は、それが起こった際にチェックできるかどうかなのかもしれません。

英文記事の場合は、(1)記者の名前が乗っていることがほとんど(2)記者の転職が頻繁におこるのが特徴です。なので、根拠の無い記事を書くとそれが汚点となり後々まで響くし、良質な記事を書けばそれが履歴書になります。自然と、根拠の無い記事を書こうという態度は減るのではないでしょうか。むろん、上記の例にあるように、なくなるわけではないのですけど。

また、日本企業を英語メディアがインタビューする際、通訳の行き違いから事実に反した記事が流れてしまい、それが噂を超えて事実ととらえられる、ということも起こります。日本企業(個人も)は自らメディアに対抗して発信するという習慣がないので、対応が遅れるか、ないままになることもあります。これについてはまた別の機会に例を見てみます。

 

自分にわかることは、他人にも絶対にわかる

アップルの製品をデザインしてきたジョナサン・アイブのインタビューが最近話題になっています。僕が今これを書いているMacBook Airも彼の手によるものです。世界で最も有名なデザイナーなのですが、目立つことがきらいであまりしゃべりません。今回ナイトの称号をもらえるようで、それにちなんでのインタビューのようです。

あまり人前にでないので、アップルストアに入っても従業員にしか気づかれない、とのこと。(意訳は僕です)

Just one person looks twice at Jonathan Ive as we walk through theApple store in London’s Covent Garden and that’s a member of staff. The customers are oblivious to the presence of the man responsible for the design of the computers, iPads, iPhones and iPods that they are admiring, tapping and caressing throughout the shop.

Jonathan IveがCovent Gardenのアップルストアに入っても、注視する人が一人しかいない。それも従業員だ。客は自分たちが愛しているiPad, iPhone, iPodをデザインした男の存在を気づくことなく、店内で製品をいじったり眺めたりしている。

謙虚な態度は「We」を常に使う態度に表れている、とインタビュー記者も誉めています。(ただこれは、本人が謙虚であろうとなかろうと、組織の長としてそういう態度をとらなければいけない、という努力の賜物である可能性もあります。スティーブ・ジョブスだって「We」を使いましたから。)

And yet Ive appears to be quite a gentle person. There are long pauses after each of my questions as he considers his answer and orders his thoughts. When he talks about his work with Apple, he almost always talks about “we”, rather than “I”.

アイブはとても物静かな人物のようだ。私が質問すると、回答を考慮して考えを整理するかのように、毎回長い沈黙が続く。アップルでの仕事について語るときは、必ずといっていいほど「私たち」といい、「私」とは言わない。

さて、今回のインタビューで一番僕が反応したのは、次の一文です。

“I think subconsciously people are remarkably discerning. I think that they can sense care.”

「人は無意識のレベルで深く見抜く力を持っていると思う。(僕たちが)心を込めて仕事をしているかどうか、わかるんだよ」

言葉を変えて言えば、自分が手を抜いたとわかっているときは、人もわかっているのだということです。アップルが徹底して細部にこだわるのは伝説となっていますが、そこまでするのは理由があるということですね。カタログや見かけに反映されなくても、ちょっとしたゆるみや甘え、傲慢さは「なんかいやだな」という言葉にできない気分で、客にばれます。

僕もテクニカルライターの仕事を何年か続けて、「専門家」として見られるようになってきました。自分がいったん「そう見られているな」と思い始めると、「どうせミスはわからないし、指摘できないだろう」と、気を抜いてしまいがちになります。

それがどれだけ「王様は裸」の発想なのか、思い知らせてくれる一文でした。手を抜いたらばれます。みんな言葉にはいえないから指摘しないだけで。

電子書籍の時代がくるのはそれがハイテクだからではなく、単に便利だから

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津田さんの本の中で気に入った箇所引用した際、本を見ながら手で打ち込んだので10分くらいかかり、指がしびれました。(おまけに、本を読みながら折り目をつけておく必要がありました。折り目を付け忘れた箇所は埋もれたままです)佐々木さんの本の場合、キーワードを検索してPDFからコピーしたので、「折り目をつける」手間を含めて2分で終了しました。それを応用して、本を他の人に推薦する際、気に入った箇所を抜粋してアマゾンやブックワンのリンクと共に送る、ということも気軽に行えます。

こういった手間を繰り返していても、もはや紙の本の時代は終わりつつあるな、と感じます。紙の手触りとか、モノへの愛着とか、そういった感傷に浸る間もなく、体が「めんどくさい」と訴えている声には勝てません。いったん便利さを味わってしまったら、僕らはもう後戻りできないように作られています。先日のツイートを引用します。

「手入力にすることでより理解が深まる」という意見もあるでしょう。僕の両親もそれを信じて、僕は子供の頃、夏休みの間毎日朝日新聞の天声人語を書き写していました。(効果があったかどうかはわかりませんが、それ以降天声人語を読まなくなったので、無意識の領域で良い文章と悪い文章を見分ける能力は身に付いたのでしょう。)

自分で書くことにより、洞察が深まり、関連した考えがわき起こり、考えが自分のものになる、というのは事実です。なぜ僕を含めて多くの人が一文にもならない文章を書き続けている理由の一つは、それによって初めて、自分が何を考えているかが分かるからです。書く=考える、ですね。

ただ、他人の考えであれば、あえて手で打ち込む必要はないのではないか、と思います。どれだけ自分の心に響いても、結局は他人の考えなのです。それを「自分化」するより、それを鏡のように利用して自分の考えを炙り出す方が健康的ではありませんか。

「もっとやらないと」は不安な僕らの現実逃避

最近、「もっと」についてよく考えます。こんなつぶやきをしました。

かつて東京中野坂上で中国語を学んだ林先生からのつぶやきについて、こう反応しました。

根底にあるのはどちらも同じです。自分を変えたくない、です。不安にとらわれるから、何かを足すことで埋め合わせようとする。甘いものをむさぼり食うのも、語学学習で単語だけを一生懸命詰め込もうとするのも、仕事がうまくいかない状況に対して「もっとやるんだ」と追い込むのも、みな現実逃避、という意味では同じなのでは、と思えてきます。

何かを始めることは、「やめることとセットにする」という考え方がありました。たしか梅田望夫さんが提唱していました(「時間の使い方の優先順位」を変えるにはまず「やめることを先に決める」ことである)。でも、これでも足りないと僕は思います。「セットにする」と考えると、まだ「つけたし」の発想にとらわれてしまうからです。

いっそのこと、「やること」「足すこと」から一歩離れて、「やめる」「変える」だけやってみる、と割り切った方がいいのでは、と考えています。そうすると、問題は一気に一般論から個人の事情に降りてきます。今までの自分を否定すること:不安なときに一番やりたくないことですけど、一番必要なことだと思います。

英語学習の秘訣=勉強を始めなくても、すでに学習している環境に自分を置く

初めて英語に触れたときから数えて30年以上、英語とのつきあいを続けていますが未だにネイティブなみに使いこなせるようになっていません。僕は語学が好きですが、才能は実はないのだと思います。そんな僕がなぜ英語を「仕事が得られる程度に」マスターできたのか?さらに中国語やスペイン語まで使えるようになった(前者は同僚との会話に、後者は女の子との会話に)のはなぜか?どんな秘密が?

答え:時間をかけたから。

期待させておいて谷底に突き落とすのが僕の趣味なのであきらめてください。言語の習得って、要するにどれだけ時間をかけたか、それだけです。なので、「どうやって勉強すればいいのか」という発想はあまりお勧めしません。それよりか、「どうやったら飽きずに勉強が続くのか」に注目することをお勧めします。その観点でみた有効な英語勉強法を見てみましょう。

方法1:英語を使わないと死ぬ環境へ移る

いや、これが一番効きます。僕は外資系で働くことで英語力が鍛えられ、台湾で働くことで中国語を使えるようになりました。ただし、この方法は劇薬で、上級レベルでないと耐えられない可能性があります。

方法2:人と会うついでに英語を学ぶ

2番目に効くのがこれです。語学教室って、結局これに尽きるのではないかと考えています。英会話教室に通うのも、気心知れた生徒や魅力ある先生と一緒に過ごす時間が楽しいからというが大きくありませんか?究極の「外国人のボーイフレンド、ガールフレンド」という方法もこれです。良い語学学校を見分ける方法は、体験レッスンを受けて、先生や他の生徒と相性が合うか、です。冗談ではなく、本気です。

方法3:自分のやりたいことを英語で行う

3番目に効きます。一番てっとり早いのは、映画を見る際に字幕をオフにしてみることですね。映画を見るという餌につられて、英語に集中力を向けます。あるいはニュース番組をCNNにしてしまうというのも手です。どうせニュースをだらだら見るのなら、英語で見てみるか、という手です。ポイントは、誰に強制されなくてもすでに継続できているものを見つけることです。それに英語をのせて、おんぶにだっこの状態で引っ張ってもらいます。

外国語を勉強し続けてうん十年たちましたが、勉強で最も難しいのは文法でも発音でも語彙でもなく、最初の「さあやるか」と腰をあげる瞬間だというのが結論です。なので、「やるか」と思わずとも勉強を始めている状態に自分を入れてしまうのが最も合理的でしょう。

日本語と英語のツイッターは(幸運にも)別物だなあ、とつくづく感じる

ツイッターはどの言語で使っても等しく140字しか書けませんが、これは使い勝手上は全く「等しく」ありません。具体的には、英語と日本語では同じ140文字で表現できる量が全く違います。たとえばある日、面白いことを思いついたのでツイートします。

英語:Everybody knows he needs more money but nobody knows exactly how much. (70字)

日本語:もっとお金が欲しいと誰もが知っているけど、正確にいくら必要なのかは誰も知らない。(32字)

日本語だと同じ内容を英語の半分で表現できてしまいます。このおかげで、日本語ではたった140字でも相手の返答を入れ、なおかつ余りが出るくらいなので、ツイッター上で相手と「会話」ができます。でも英語だと相手が長い返事を書くことはできないので、せいぜい「いいね!」と返すか、ただのリツイートしかできません。英語では挨拶しかできませんが、日本語ではツイッターで会話、議論、対話できます。

しかし、日本語で思いもかけずに大量に情報を流せるおかげで、日本語の独特なツイッター文化ができたのだと僕は信じています。そしてツイッターでいろいろな人の意見を聞き、それに自分の意見を加え、それが広がるのを見るにつけ、この便利なツールが世の中に存在することに感謝しています。

おそらくツイッターの作者は使い勝手を分けようとは考えていなかったはずです。アメリカ人らしく、世界中で公平に使えるように、言語に関係なく「公平に」同じ文字数を割り当てたのでしょう。一つの文字が単語として機能する漢字という言語体系を知らなかったがゆえの、(幸運な)勘違いのおかげで僕たちは日本語や中国語で、手軽なチャットの場としてのツイッターを手に入れています。

追伸:もし英語空間で日本語ツイッターのように文字制限を気にせず見知らぬ人との会話を続けたい場合は、グーグル+がかなり使えるのではないか、と思います。放置プレイしている自分が言うのもなんですが。グーグル+はウェブの権威、Guy Kawasakiが本を出しており、これを読むといいでしょう。

 

日本が嫌いだ=自分が嫌いだ

いろいろな人が海外で過ごすことを模索しています。ノマド論議も盛んです。日本で古い枠組みの中で生きるのはあまりにもしんどいから、新しい方式を皆が探しています。いったい日本の枠組み(共同体とも言います)の何がしんどいかって、「無言の圧力」でしょう。こんな場面ではこうするべきだ、という約束事が多すぎて、それが積もり積もって爆発するくらいのプレッシャーを生んでいるのだと思います。

で、みんな「こことは違うどこか」を求めてさまよいます。口実はいろいろありますが、根っこの本音は「どこでもいいからもっと楽に生きたい」だと思います。僕はそうでした。日本企業から外資系、はてまた台湾へ流れ着いてきたのはひとえに自分が気持ちよくいられる居場所を求めていたからです。

でもふと振り返ってみると、それは「周りの環境の力を借りて自分を変える」作業でもありました。なんやかんやいって日本の圧力社会で過ごしたせいで、僕自身が、自分にも周りにも無意識に圧力をかける習慣を身につけていたのです。たとえば、「居場所を見つけなければ」という考えだって「なければ」の時点ですでに圧力ですからね。

そんなわけで、「俺は普通の日本人とは違うんだ」といきがって入った外資系や台湾で、自分から見たら常識はずれにいいかげんな同僚に対して「これだからXX人は・・・」とふと口に出してしまい、自分がいかに普通な日本人であるかを思い知らされることになりました。

とある環境に身を置くと、自分もその環境に染まってしまいます。あれだけ日本的な同調圧力は嫌いだ、と言っていたけど、自分自身がその圧力に加担していたんだ、ということですね。「日本社会は嫌いだ」は歪んだ形での「今の自分は嫌いだ」という声でもあったのですね。

 

 

エリート人材はグローバル人材であるための必須条件なのだろうか

少し前に、グーグルの元日本支社長、村上氏のインタビューが評判になったので読んでみました。突っ込みどころが満載なので、ツイッターにあきたらずブログでも紹介しようと思います。骨子を簡単に言うと、日本人はもっとグローバル化しないと取り残される、というしごくまっとうな内容です。ただ、神は細部に宿る、という言葉の通り、細かいところが引っかかりまくったのでそういう意味では読み応えのある記事でした。

記事で語られている「グローバル人材」は「グローバル企業のトップが務まる人材」という、かなりエリートな人のことを指しているのでは、というのが感想です。そこで、もっと庶民的に、「台湾企業の現地採用でマネージャーとして採用されるレベルのグローバル人材」にここで語られている内容は当てはまるのか?を僕自身の経験から考察してみます。あくまでも、「僕の知っている世界は違う」という話であって、元記事の内容の信憑性については触れません。

年齢、性別、人種、国籍等は一切問われない。これらの差別は禁止されている。日本のようなあからさまな年齢差別はないし、履歴書でも問うてはいけない。何歳か?とか何人か?ではなく、あなたは何ができるか?だけが問われる。

米国、台湾、イスラエル企業で仕事をした経験で言うと、あからさまでないだけで、どの国でも差別はあります。みんな差別したくてするわけではなく、差別には合理的な理由があります。日本企業でいえば、年を食った人間は会社の色に染まりにくいからです。イスラエル企業ではもちろんイスラム教徒が「差別」されました(つうか、入社できない)。台湾企業では、自国民を優先させろと政府から「外国人差別」のお達しが出ています。能力だけで選定される業界を僕は(まだ)知りません。世の大部分は差別が存在しており、それを「悪意」ととらずに、事情を理解して差別の存在を認め、自分が時には差別に助けられることも理解した上でつきあうのが現実的ではないでしょうか。

グルーバルな人材市場で学歴というのは世界的に通用するブランド大学のことである。ハーバード、エール、MIT,オックスフォード、スタンフォード、ケンブリッジ、カルテック、デュークぐらいであろう。

能力だけ、だったはずなのにブランド大学ってどうよ、と思わず叫びそうですが抑えて(抑えていない)、実感として、僕も、これまでの同僚や上司も、上記ランクのブランド大学を出ている人を知りません。大学とは人脈を作る場所である、と聞いたことがあります。確かに上記大学を出ていれば知り合いのクラスはあがるでしょうが、そのために数千万円の投資と死ぬほどの努力をするものだろうか?と考えます。

大学の成績。日本と違って世界は卒業証書をだけを見るのではない。大学時代の成績はとても重要である。

外資系と台湾企業あわせて10年以上仕事してきましたが、大学の成績を見せろ、と言われたことはありません。新入社員なら別なのかもしれません。僕は新卒は日本企業に入り、そのときも成績表は見せませんでしたが(見せてたら落ちてたな)、「(国内)大学のブランド」に助けられました。

最低でも修士。しかも上記のブランド大学のプロフェッショナルスクール(ビジネススクール、ロースクール、エンジニアリングスクール、建築・デザインスクール等)でないと採用側に響かない

修士は確かに有利です。ただ、採用側が「修士」と書くときは「修士レベルの知識」を求めているのであって、それにつりあう何かを出せば(たとえば経験とか)、いけることが多いです。僕はそうでした(学位しか取っていません)。

説得力ある実績。転職ばかり繰り返している印象はダメで、実績を残しながら企業や企業間の階段を上ってきた印象ある実績が有効

仕事が本当にうまくいって、実績が積上っていたら転職なんて誰もしない、というのが僕の実感です。(本当にうまく行っている人は、転職せずに、引き抜かれます)いかに(失敗した)経歴を次へのステップだと言い換えるか、転職の成功に必要なのは「実績」よりも、「物語」なのでは、というのが実感です。(僕はこの才能に恵まれているようです)

日本では何であれ失敗は悪い評価の対象だが、世界では違う。もちろんその内容は大事。説得力ある目標実現のために、計算されたリスクを取りながら、精一杯努力しての失敗は高評価を受ける場合がある。

実感として、失敗はどこへ行っても悪く評価されます。先ほどと同じで、うまく「物語」をつむげるかどうか、が鍵になると思います。

一般的に欧米のエリートは日本に比べて中高時代に勉強していない印象があるが、それは大きな間違いだ。真のエリートは中高時代から日本人がびっくりするような教育を受けている。ボーディングスクールだ。

僕自身はボーディングスクールに通った人は知りません。外資系企業の社長を含めても、です。

スポーツや芸術の経験も大きい。ゴルフやテニスやスカッシュや乗馬のように長い間社交の場で使える技術はビジネスでも生きてくる。パーティーで即興で社交ダンスやピアノやバイオリンを披露したら受ける。

・・・これくらいにしておきましょうか。最後は明るくユーモアで締めくくる、のは確かに外国で受ける話術ではあります。

つい長々と突っ込んでしまいましたが、要するに、グーグルに代表されるようなエリート集団の世界=グローバル化のほんの一部、だというのが実感です。僕も外資系に飛び込んだり台湾に飛び込んだりする前はそのような魑魅魍魎の世界を想像していたのですが、入ってみたら意外に普通のレベルで肩すかしをくらいました。

むしろ、障害になるのは学歴や職歴よりも、硬直化した態度や考え方であるようです。外資のやり方についていけずに脱落した人を見ると、自分の知っているやり方を捨てて、新しいやり方を覚えることができない人がほとんどでした。なので、グローバル化に必要なのは何よりも適応力だ、が僕がこれまで得てきた結論です。日本で介護に関わっている東南アジアの方から投資銀行の頭取まで、これは一貫しているのではないでしょうか。

適応力についてはまたぼちぼち触れていきたいと思います。

 

この人たちの日本語の使い方を学ぶと良いのでは

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前回ではこの人たちの英語の使い方を学ぼう、と書きました。じゃあ、日本語はどうなの、と考えてみます。僕らが何も考えずに使っている日本語だって、上手な使い方と、下手な使い方があるはずです。誰を参考にすると良いでしょう?

僕は糸井重里と谷川俊太郎をお勧めします。

糸井重里さんはほぼ日刊糸井新聞ですでに読んでいる方がほとんどでしょうね。僕も愛読しています。「今日のダーリン」から少し抜粋してみましょう。

いまごろの季節に外を歩いていると、
たくさんの花が咲いているのを見ることになります。
ほんとうは夏でも、花はたくさん咲いていますが、
寒くて静かだった冬をこえてきて、
さぁ、とばかりに咲く花を見るのは、
人間にとってもうれしいものです。

人が植えて咲かせている花を見るときには、
花をいいなぁとながめる気持ちの他に、
それをした人への、共感やら感謝やらも混じります。
そして、詠み人知らずのように咲いている花には、
野良猫に対して感じるような、
たいしたものだというふうな敬意が湧いたりします。

糸井さんの文章の素晴らしい点は、「ひらがな」が多い点です。それが独特の読みやすさを生み、誰にでもわかるけど子供向けではない文章に仕上がっています。たぶんこつはカタカナをすぐ使わないだけでなく、どこで漢字を使い、どこで使わないかを意識している点にあるのでは、とにらんでいます。

そして糸井さんの言葉には「とげ」がありません。正確に意味を書き出す、という意味ですごく「尖っている」のですが、「とげとげしく」はありません。彼の文章を読むだけで癒される、という人は(僕も含め)多いのではないでしょうか。昨今、特にネット上では言葉遣いから誤解や炎上が起こります。どうしたらそんなことにならずにすむのか、悩むときは糸井さんの言葉遣いを見てみる、のはどうでしょう。

谷川俊太郎さんについては何も説明が必要ないですよね。外国の方に、日本語を最も自由に使いこなせる人間はだれだ、と聞かれたら僕はこの人の名前を挙げます。

この二人が対談する内容を読むことで、こうやって日本語を使えばいいのか、とあらためて勉強できます。たとえば、日本語を勉強する外国人に、どの人の書く物を読めばいいのだ、と聞かれたらこの二人でまず間違いないのではないでしょうか。