ナショナリズム全般に関して:どうでもいいことなのでは

ナショナリズムについてよく考えます。僕は台湾に7年住んでいます。いわゆる帰国子女なので子供の頃海外で過ごしており、台湾に来る前も外資系企業で働いていました。日本という国になんかなじめないな、と感じて台湾に来た当時、僕は自分がいかに「日本」にこだわっているかに驚かされることになります。

日本人である、ということで嫌な目に遭ったわけではありません(台湾ですから)。「日本」を自ら意識しまくっていたのです。道を歩いて日本人の会話が聞こえるととたんに鬼太郎の父親のように「ビビビン」と髪の毛が逆立ちます。台湾人の会話でさえ、「ルーベン(日本)」という単語が聞こえると速攻で耳がそちらに向きます。日本では大して気に留めていなかったスポーツ選手も、海外で勝利(あるいは敗北)のニュースを見るとどうしても読んでしまいます。

思うに、僕は「日本にあまりなじめない」と自分を規定することで、かえって「日本」という存在を必要以上に自分の中で大きくしていたのでしょう。日本を離れて一息ついたはずなのに、自分のありようはやはり「日本」を軸に回っていたので(好きだろうが嫌いだろうが)、自ら日本の匂いを敏感に嗅ぎ分けていたのだと思います。

さて、それから7年が過ぎ、2012年の夏はオリンピックに竹島に尖閣に中国でのデモと、特にナショナリズムを刺激するイベントが多い印象があります。しかし、それとは逆に、僕自身の反応はずっと醒めたままです。オリンピックでの日本人選手のメダルの数より、金がなければオリンピックに出場できなくなる未来の記事の方に動揺しますし、竹島と尖閣にいたっては「どうでもいい」とまで感じています。7年の間に自分の日本に対する感情(あるいは感傷)はずいぶん変わってしまいました。

感情が負から正に、あるいはその逆に変わるのならまだいいのですが、僕の場合はどうやら日本に対する感情が「減ってしまった」ようです。そしてそのことについて罪悪感も、後悔もありません。むしろ、ようやくか、となんかほっとしているくらいです。

「脱日本」が完成した、という単純なことではないと思います。もしそうなら、僕は今でも「日本を脱出したんだ」と、「日本」というキーワードを使い続け、それにこだわったままでしょう。むしろ起こったのは「日本離れ」よりも「国家離れ」ではないか、と考えています。

僕は中国語を日常的にしゃべり、台湾企業で働き、友人たちの半数は台湾人です。でもどれだけ台湾にとけ込んでいるようでも、僕は「日本人」であることを(悪意の無い)指摘や質問により、普段から意識させられます。最初の頃はそれが不快でした。でも今は、それを自然に受け入れている自分がいます。僕は日本で生まれ、日本の国籍を持ち、台湾に住んでいる。それが自分を作るアイデンティティではなく、単なる事実として心理的に軽く扱えるようになってきたということでしょう。

僕という人間はいろいろな要素で構成されており、しかも日々変わりつつあります。出身国家は大きな要素ですが、それでも、要素でしかありません。国や民族を背負い続けることは、僕という人間の全体の変化にそぐわないのでしょう。むろん、ここで語っていることは僕自身の個人的な経験です。伝えたいのは、「国」や「民族」にこだわりを持つことは必要でないし、ひょっとしたら重要ですらないかも、ということです。結局は、大切なのは自分と周りの人との生活ですから。