I will update the rest of the pictures in a separate entry.
When returned to Narita airport today, I noticed two different immigration gates – “Japanese” passsport and “Foreign” passport. Sure, it’s not the first time I see it, but after being in Beijing and working as a “foreigner” there although we look very alike in appearance, I felt something is totally wrong here. In Beijing, nobody described me as a foreigner(laowai老外), and everybody used “Where are you from?”, not “Which country are you from?” when asking me after listening to my poor Mandarin…. Are they going to punish non-Japanese here? If I were from another country, I will take this sign as such.
What is the definition of “foreigner”? It doesn’t mean anything, except showing a very narrow, subjective point of view from native locals saying “You are different”. We do have a lot of Japanese whose origins are in Brazil, Korea, China, US,… and anybody who says they want to live in a peaceful, unified country with no “foreigner”, well, I can say, why don’t you crawl back to your mother’s womb?
I believe eliminating this usage of “foreigner”(and any other insensible words) has 3 times more positive effect on people visiting Japan from elsewhere, than showing off “Yokoso JAPAN” campaign ad(which is ubiquitous in the Narita airport building).
I get a bit overreacting on this issue, since I was always an “outsider” as a kid – when in Taiwan and Malta and after returning to Japan. And I remembered an acquaintance from England told me ‘You cannot say “foreigner” in England – people will regard you as a very narrow-minded person. We have English coming from everywhere in the world. Just take a look at the Premier league football game. How many of them are white, even as “English”?’.
Odamiさんこんにちわ。
季世恵さんも、加藤さんも確かに若い・・お二人とも一般の人より良くも悪くも濃い人間関係を経験しているだろうに、疲れた顔(デヴィッド・ボウイのような)に見えませんよね。苦しい時に発芽して、苦しさが抜けたときに成長する、というのが王道なんでしょうかね。ただ、苦しさをあえて求める、ということではなくて、やりたいことをやるときに苦しい経験を避けてはいけない、ということなのでしょうね。志村さん加藤さんのご経験に比べればまことにささやかですがblogにエントリーを書くときにも毎回、書き始めは少ししんどさを感じるので呪文のように「苦しいときの発芽」を唱えましょう・・
Isaoさん、こんにちは。
名前を出してくれて嬉しいです。
私の周りでは、季世恵さんのあまりの若さと可愛らしさが話題になっております(笑)。
振り子のお話は確かにそうですね。季世恵さんの「苦しい時の方が発芽しやすい」というのは、なるほど~と納得でした。
ではでは。。
さて、大阪に来ています。
wyukiさんのblogもみました。へぇーX5。短期的な答えが求められる中で、長期的な考え方をする:考えさせられます。
確かに、限界は超えてみた後で(=体を壊すか、そこまでいかなくても体調不良になって)初めて自覚できる、ということをよく実感します。ある程度無理してはじめて限界がわかって、そして限界がわかるとそれを広げることも意外と容易にできるようになるんだなあ、と感じます(何がなんだかわからない、というのはそれだけでエネルギーを奪ってしまうのですね)。僕の場合は無神経と気にしすぎ、を振り子のようにいったりきたりすることがあるので、学ぶとき(後者)は確かに学びますね。
レスはやいっ!「JCAT勉強会」のエントリーにコメントをPostしたあと、wyukiさんのBlog(http://blog.neoteny.com/wyuki/)に遊びにいったら、同じトピックでエントリーがあって、しかも私のコメントと同じような事を志村さんが言っていたみたいで、へぇーと思いました。
Isaoさんの「視線や立ち位置を同じにする、ということは当人が味わっている苦しみや恐怖を、セラピーを行う立場の人間も共有する、ということであるはずだ。さもなければ穴へ降りたことにならない。どうやってそれに耐えているのだろう?」について思ったのは、経験から覚えるしかないんじゃないか?ということでした。耐えられなくなるところまで一緒に行くか、やばい!と思うところまで一緒に行って経験を積んでいけば、自分がどこまで行けるか分かって来る。神経が細かったりする人には辛いかも知れないけれど、そんな人ほど学びが多いですよね。
わおありがとうございます。これ書き始めたときは腹痛と眠気と偏頭痛がトリプルで襲ってきたのに、書き終わったら気分が高揚していました。くしゃみ3回blog3行。
人が変わる瞬間については、僕もそう思います。大事なことは、一人で考えてはよくないけど一人で決めたほうがいい、とも普段、(一人で)考えていたりします・・普通はその逆をやってしまいがちだからなんですが(一人で考えて皆で決めようとする)。
Thoughtful entry! I like it. 人が変わる瞬間は、その人が一人で変わるんだと思います。人はとことん苦しんで、学びの時が来れば変わるんじゃないかな。誰か光をあててくれる人が現れても、現れた人が何かするということは、現れた人の学びになるだけなような気がします。セラピストも、困った人が選ぶわけだし。