I'll be back around May17th.
Until then .... I'll be somewhere in Southern Africa.
5月中ごろまで南アフリカ一帯ででゆるゆると過ごします。
では
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I'll be back around May17th.
Until then .... I'll be somewhere in Southern Africa.
5月中ごろまで南アフリカ一帯ででゆるゆると過ごします。
では
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あっという間に戻ってまた行きます。
つらつらとBlogPeopleにて新しく更新されたblogの群れを眺めていたら、男性が書いたものと女性が書いたものが読破開始後約10秒で判別できてしまうことに気が付いた。
男言葉、女言葉、の使い方でわかるわけではない。何を題材に選ぶか、だ。
<これがネタだったらほぼ100%性別がわかる判定方法>
男性:日々発生したこと
女性:日々感じたこと
英語で言えばwhatが重要なら男、howが重要なら女、となる。
で、これは面白いな、と自分で感心するものは
男性:日々感じたこと
女性:日々発生したこと
をネタにしていることが多い。あえて本能にさからうのか、遺伝子の配列が少し狂っていてその歪がそもそも面白いのかはわからないが。
さて、上記の傾向は日本人だけでなく外国人(西洋人・・・・)にも当てはまるのだけど、男性に限って言えば日本の男性全般(日本語で書く)と、それ以外の国家の男性全般(英語で書く)との間でまた違いがある。
日本の男性が書くものは、モノについて書きはじめるのだけど(客観、としておこう)、結局は感情(主観)の話で終わる印象がある。
それ以外の場合は、モノについて書き始め(客観)、感情が入り(主観)、最後に客観で締めくくる印象がある。
だから読んでいて、英語+男性のblogだと良きにせよ悪きにせよ後味があまり無い。日本語+男性のほうが後味がある。
主観しかありえない極端な世界はあるだろうか。サラリーマンのおじさん達の会話を思い出した。日本のおじさんたちは大抵話しのネタをものすごく身近で具体的なもので始め(仕事とか天気とか)、終わりは完全な主観の世界で終わってしまうことが多い。ような気がする。一旦物事を客観的に見てみよう、と努力しない限り教訓や洞察は生まれないから、彼らの話から新たに学べることがあるとすればそれは今まで考えていたことをひっくり返してくれるものにはならない。今までぼんやりと思っていたことを、強化してくれることにはなる。うまく働くときには、僕が前から持っている考えに自信を与えてくれる。悪くはたらけば(こちらが多い)、この人種の話はつまらない、で終わる。
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24日から3週間、南アフリカ一帯ををうろついてきます。
帰ってきたら怒涛のようにblog攻撃・・となるかどうかはまったくわからない。
最近、ますます「わからない」状態を楽しんできている気がする。ついでに、わかんないままほっておいておこうか、という傾向も強くなってきて、以前のように何かあればすぐに形にしよう、blogに書いてみよう、結論を探そう、という欲望が薄い。
「気がする」というフレーズがやたら出てくるのも自分の中で起こりつつある変化だ。こんなこと思いました、だけでも十分ではないか、と最近感情や気分を書き連ねたblogを読むようになって、ますます技術系blogから遠ざかっている。読んでいて何がなんだかさっぱりわからないしわかろうともしていないから当然だが。
他人が考えていること、思っていることが素のまま出ている文章は、読んでいて退屈することはあまりない。でも自分で書いてみると、「こんなこと考えました」だけだと後で読み返したときに恥ずかしくて記憶から消したくなるときがままある。「おもしろかった」といわれることのほうが比較的多いから(ネガティブな感想を言う人間とは意識的にも無意識的にもあまり関わらないようにしているからなのだろうけど)、そうかそれでいいか、とひとまず自分をほっと納得させてそのままにしてしまう。
自分が考えていること、思っていることを出してしまいたい、でもそのまま出すだけではすごくかっこ悪い気がする、だから
1.脚色する、悪く言えば嘘をつく
2.とりあえず面白くする努力をする
3.書ける範囲で、本当のことを書く(そうすれば残った部分を言いたい衝動も消えたりする)
そんなことをこれまで大なり小なりやってきた。思ったことをすらすらすらと書き連ねてきただけではない。
うーん、一時期、blogのネタを探して頭を痛め、結果的にいろいろな実験をやって少しずつ幅を広げてきたことを思い出した。デジタルカメラに撮った写真をアップデートするなんて、2年前だったら。。
そういう試行錯誤こそがこのblogを形作ってきたのだから、これからも試行錯誤を続ければいいではないか、の一言で全てけりがついてしまいそうだ。悩んだり苦しんだり眠いのを我慢したり根性を入れたりすることそのものに価値があるとはあまり思わないけれど、別にあっても悪いことでは全然無い、と考えてみた。
今回は当初、自分が考えていたblogの使い道:つらつらと考えを垂れ流して、整理がつくなり満足するなり燃え尽きるなりしてみよう、をやっている。完全に、一人で完結してしまう世界だ。あれほど読んでいた村上春樹の著作を5-6年前にばったり読まなくなったことを思い出した。その当時はなにかやばい、と思って村上龍に入れ込みはじめたのだが、春樹の世界が一人で完結しやすい、のが怖かったのだろう。気持ちがいいのだけどその中で腐っていくような、体がむずむずして痒くなるような感覚を味わったからだ。
で、それまでの勤め先を辞めて半年ほどなにもせずに(何も悟りらしきものは開かず)、東京で再就職して今に至って、なにやらようやく落ち着いてきたのかもしれない。気持ちではなく、体が生活の変化になれてきた感じがする。だから最近ぼーっとしているのだろうか。あるいは単に春だからなのだろうか。確かに秋になれば確実に少し鬱っぽくなる。
うーん、まとまりも結論も無い。これ、後で読み返したら苦笑するだけになるだろうなあ。
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最近あまり書き込んでいません。
何故か。
先先週あたりから、一日一つ、これだけは会社を終わってからやる、と優先事項を決めて過ごすことにしたら、blogに書き込む余裕が一時的になくなっている。一つはやるけど、それ以上は自分に要求しないようにしたら、気が抜けてそのまま寝てしまうのだ。これまではblogがその「一つだけやる」ことに該当していたことが多かった。
毎日少しずつ、たわいも無いことを書けばいいのだろうか?でもそういうアドバイスをする人(自分自身です)は、本当にたわいも無いことは書かないよね、と無言でプレッシャーを与えてくれるのだ。うざい。
英語と日本語をどう切り替えて書けばいいか、自分でも少しわからなくなってきたこともある。「こうすればいい!」とはっきりわかるためには・・・書くのが手っ取り早いか。もう少しゆっくりと頭の中で整理を続けます。
中国語で何故書かなくなったか。毎日、通勤の時間を利用して中国語の教材を聴いているのが大きい。一日最低1時間は中国語に浸っているので、それはそれは特別な時間も設けずにお勉強したなあ、効率いいし密度濃い時間の使い方だなあと満足しているのだが、逆に部屋に戻ったら中国語から興味が引いてしまうことになった。中央電視台も見ていないし。うーん。
ということはここ一ヶ月ほどテレビを全く見ていないのだ。民放とNHKは5年前にさよならしてそれ以降ずっとケーブルかスカパー(すちゃらかであっぱらぱあ)だったが、それすらも別にいらないということですね。イラクの人質解放は新聞の号外を見て知った。山の手線内で、首を約65度傾けて目の前の人が広げている新聞の内容を「わけてもらった」。
というようなことを書いていれば薄くとも文章は連なるが、うーん、一回一回燃え尽きるのと淡々と進めるのと、どちらがよいのかの区別もつかなくなってきました。
もうすぐ長期の休暇を取るので、そのときにどうするか考えます。何も進展しなかったらそれはそれでいいと思う。考えながら進め、というサインだろう。
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いつか書こう、とぼんやり考えたことが先に形にされてしまった。
先見日記
というより僕は片岡義男氏の意見にいちいちうなずいていた口だから、単に彼が前からいわんとしていたことをようやく理解してきた、ということだったのだろうか。
世界中から才能を呼び寄せて自分達の力にしてしまうアメリカの強さが失われつつあるとしたら、次に人材が向かうのはどこだろうか?中国がその流れをうまく引き寄せたら、彼らは本当の意味で大国になれるのだろうか?あるいは真っ当に、みんな自分の国で地道に努力しよう、と考え出すのだろうか?
自分の感性が上がったのか、変化が早すぎるのか(こっちだろう)、昔ならば歴史の転換点としてとらえられるような出来事がほぼ毎月やってくる。ワールドカップを自国で開催した。イラクで戦争がはじまった。日本のトップクラブでレギュラー活躍している選手より、イギリスのクラブで補欠扱いされている選手の方が人気があがる。自衛隊が海外へ派兵した。面白いのと疲れるのと怖いのとが交互に襲ってくるので気を抜く余裕が無い。いいか悪いかは別にして、暇がなくなってきた。自分を防衛する手段として、僕は必要以外神経を遮断する術を身に付けた。
イラクで3人の日本人が人質になった、というニュースを聞いて瞬間的に深く感じ取ることを避けて、なぜ大騒ぎするのだろうか:日常生活があるんだ、とつぶやきながら中国語の勉強に励む。やはり変だ・でもマスコミに踊らされるのはいやだ・自分にできることはないのだから生活を充実させよう・自分には血も涙も感性もないのか・彼らだって行きたくなければその選択もあった・それはそうとして政治家全員から資産と金と権限を剥奪してティッシュ配りをやらせろ と、考えがぐるぐるまわってすぐに疲れてしまう。
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BGMを聞きながらblogを書いたらどうなるだろう:第一弾、Elvis Costello "Girls Girls Girls"
突然ジャンクかつ腹が膨れるものが食べたくなり新橋などというど都会にぽつんと立つファミリーレストランでハンバーグにかぶりついたところ隣のサラリーマンが少年ジャンプについたソースの汚れを丁寧に紙ナプキンでふき取った。
どう見ても30代後半だった彼はジャンプにしみどころか折り目すらつけないように一枚一枚丹念にページをめくって「そこまでだ」「やってやろうぜ」といった文字を食い入るように見つめながらポテトサラダの山を崩していく。
東京に来て3年になるけどこれまでジャンプを読んでいた人間の傾向をまとめるとこうなる。男100%、女0%。10代10%、20代30%、30代50%、40代以上10%。小学生が読んでいるのはこれまでに2回見た。(全て思い込みに基づいています) (BGM: Radio Radio - 別のアルバムだけど)
少年ジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオン、みんなとっくに名前を変えなければいけない。いっそどこかの大きな出版社が他の会社をみんな吸収するか潰すかして一つにまとめてしまえばいい。集英社だったらみんなジャンプで統一する。
出産ジャンプ
赤子ジャンプ
幼年ジャンプ
少年ジャンプ
若者ジャンプ
青年ジャンプ
中年ジャンプ
老人ジャンプ
仙人ジャンプ
墓場ジャンプ
産まれる前から死んだ後までもれなく漫画はついてくる。
ついでに登場人物の成長度合いも統一する。出産ジャンプでは、どこまでいっても彼らが生まれる瞬間だけを描写する。赤子ジャンプではおしめを代えてもらったり、おしゃぶりを離さない姿が延々と繰り返される。幼年ジャンプあたりになると段段キャラクターが分かれ始める。少年ジャンプでようやく冒険が始まる。若者ジャンプあたりから屈折が始まって初恋・初体験・不登校・リストカット・金属バットで親を撲殺・などなど続く。(BGM: I Want You)
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This has been on the weblog related news for a while and recently it started to dawn on me this is really going on.
The access to this weblog has been diminished since last week. I can think of two reasons. One is just my guess and I don't want to write it here - Isao's law says once you say or write a bad idea, it becomes real. The second is that the access from Mainland China dropped to near-zero suddenly. I used to have lots of visit via this website (looks like a search engine entry we are very familiar with).
I wonder what made the authorities in China decide it's time to shut the rants from Typepad community (I decided that they did it). As far as I know, I never read any "harmful" idea to Chinese government posted on Typepad weblogs. I read dozens of posting on Typepad which ridiculed, mocked, despised, accused, and revealed the dark side of Chinese authority but none of them hurt anybody. Maybe some.
Every person from China I know all are well aware of what's going on in China today(well, they are at least bi-lingual and has a very good history of higher education....). Along with astonishing economic growth and rising people's standard of living there are corruptions, contamination, black markets, "private" companies run by beaurocrats, things you can or you can not say in mainstream media. In a sense, it might be a more informed society than in Japan, at least in the educated class. Everybody knows what is allowed or prohibited in China, whereas in Japan sometimes we Japanese are not sure what is prohibited until we try to go out of our small yet comfortable inner table of community.
I can see the Chinese authorities sustaining their pride by controlling the media(showing people the power they have) and making their end's meet by smuggling goods. Watch CCTV (China Central TV), they are always disciplined, high in morale, put ordinary people's request first, and (in case of male beaurocrats) can have a romantic relationship with bright young beautiful women. The opposite might be true, as we know too much from our experience in Japan and elsewhere.
The soon to be worn-out beaurocrats who doesn't know anything about what's going on in the world today (me neither, but at least I have the access if I want), cannot speak English (which should be a must-item today if you want to grab hearts of young girls), staring at the PC screen "inspecting" obscene Internet site. They have a huge power in China, no doubt, but should be regarded as boring, pitiful, tiny people who doesn't know either to do. They are no different than what we have in our home country - I keep that in my mind when I get chilled by hearing depressing news regarding China.
Did this entry helped prolonging the Typepad block period?
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先日出会ったとある人がこのアーティストの素晴らしさを語りつづけた。僕はふむふむとうなずきながらも、一体なにがどうすごいのかまだよくわからなかった。しかし彼の熱意はあまりにも本物であり、かつその人は何事かに執着する傾向があるようには見えなかった。執着(あるいは依存)という言葉から遠く離れていそうな人間にそこまで語らせるのは何者だ、と興味が湧いて調べ始めた。というより、Andy Goldworthyというアーティストを通してその人のことをもっと知りたい、と感じたのが正解かもしれない。あるいはその人に興味があったからこそ、Andy Goldworthyに興味が出たのかもしれない。いずれにせよ、何か(モノやテクニックや誰か)に興味を持ったとき、それはそのきっかけとなった人物と切り離すことができない。ということは、人物に魅力がないかぎり、その人が勧めるものにも興味を持つことは(あまり)ない、ということだ。
何でこんなことを考えるのかというと、各種セミナーまたは勉強会の席で、やりたいことについて周りの理解が得られない、もしくは周りをいかにして動かすか、に悩んでいる人を時々見かけるからだ。彼、または彼女はだいたい真面目で、真剣で、かつ・・・魅力があまり感じられない。お前に言われたくはない、という彼らの声はまた後で聞いて(それはそうだ)、僕も彼らと積極的にお近づきになりたいという欲望がわかない。多分それは彼らが何かを「支配」することを目指そうとしているように感じるからだ。あるいは彼らの、自分が変わらずに他人を変えようとする欲望かもしれない(それらがうまくいっている人間は勉強会には来ないし、来たら僕は即効で逃げる準備をするだろう)。あるいは単純に、失敗したり悩んだりしている人と関わりたくない、という自然だけどかっこ悪い自意識だけなのかもしれない。それっぽいな。
魅力が感じられないことの副産物は、彼らの人となりだけでなく、その主張の内容にまで魅力を感じなくなってしまうことだ。逆に魅力を感じている人のいうことは、かなり真剣に聞いてしまう。後から考えるとつまらないことでも。だから内容と人となり、どちらを先に鍛える?もしくは改善するか、と言えば絶対に人となりだと、悩んでいる人を見るといつも思う(それは悩んでいるときの自分にも当てはまる)。彼らもそのことを自覚してみたら痛いだろうけどすっきりするだろうな、と思う。
「なんで自分の計画したことに周りがついてきてくれないんでしょう」
「それはあなたがぶさいくだからです」
というのは答えじゃないけど答えだ。計画の内容さえ直せばなんとかなる、と考えるよりずっとましだ。
もとい、Andy Goldworthyについて。とりあえずはここのページからも作品が見れます。
僕は芸術に対して感受性はゼロだと思っていた(いる)し、名画や彫刻や写真集を見ていてもたいてい30秒くらいで飽きる。特に登山をした時に頂上の山小屋で山の写真集を見かけたりするとうんざりしたりもする。そこにあるんだから自分の目で見るわ、と吐き捨てて立ち去る。Andy(呼び捨て)の作品も最初は面白いなあ、と見ているがやはり30秒で注意が薄れる。でも彼の作品は何日かたった後でもう一度見ると、また最初の時と同じように面白いなあ、と思える。今日までに1週間毎日、20秒ずつくらい見ているがまだ飽きない。とりたてて言うことのない芸術作品に見えるけれど、贔屓目抜きに何かが違う。
理由を考えてみた。多分、彼と彼の作品の一番の特徴は自然に対して対等な立場でいることだ。僕がこれまで目にしてきた芸術作品のうち多くは、人間を至上のものとしてとらえる(中世の壁画なんてみんなそうだ:神の形をかりつつも自己満足の世界)か、自然を至上のものとしてとらえる(風景画とか風景写真とか)か、自然を「弱いものとして守る」(動物の赤ちゃんの写真とか)かしていた。要するに、人間と他の自然との関係は対等ではない。どちらかが絶対的に上で、その関係は揺るがないもの、という感じを受けていた。
Andyの作品を見ていると、人間と自然とがコミュニケーションを図っている、というより一緒になって遊んでいる、という感じを受ける。それぞれお互いにないものを出しあう。人間は手や足を使い、自然は材料を出す。人間が自然を完全に作り変えるわけでもなく、かといって「保護」したり「手を出さないでおく」としたりするわけでもない。一緒に住んで、礼儀を逸しない範囲でお互いに楽しむ同志、といったらいいのだろうか。もう少し言えば、彼の作品を見ていると「自然」と「人間」のつなぎ目を見ているような気にもなる。自然が人間を飲み込んでいるのでも、人間が自然に同化しようと努力しているのでもなく、きっと人間と自然が握手をすればこんな形になるのだろうな、というようなものを彼は作っているのだ。
人間には人間なりの生活とか文化とかがあって、それに従って生きていけばそれでいい、でも他の存在とも、違いを認めた上で一緒に生活できるのではないか、という可能性を示唆してくれるような気がする。僕は例えば、人間の子供がジャングルやサバンナで動物に囲まれて暮らしている姿、という現象をポスターや雑誌で時々目にする。それに対して、正確にはそういうものをありがたがる風潮に対して、違和感を持っている。その違和感が強化されたようだ。どれだけ癒されようとも、自然を愛する心を刺激されようとも、やっぱり不自然なものは不自然だ。人間は他の大型野生動物に比べて格段に体力的にひ弱だ。だからそういう子供達は動物の群れに混じることなど許されないか、食い殺されるか、野垂れ死にするか、どちらかになるに決まっているしそれこそが自然だ。大自然で動物と文字通り一緒に生活する、というのは結局人間様の存在を上に掲げた傲慢な行為だ、と傲慢なことを考えた。
ついでに写真集を買って、またじくじくと楽しめそうだ。
'I see individual stones as being witnesses to the places where they sit; They are a focus for that place; they are embedded with the memory of that place. They are layered with its history. So when I covered a rock with leaves, it was to touch the autumns that the rock has witnessed. And when I covered the rock with red or yellow, its not like painting a surface onto the rock; it's to touch the energy within that rock.'石ころはそれがころがっている場所の証人です。石ころを通して、その場所についての記憶がいっぱい詰まって見えます。歴史が積み重なって、層を成しているのです。だから僕が石を葉っぱで覆うとき、石がこれまで目にしてきた秋の記憶に触れることになるのです。そうやって石が赤や黄色で覆われるとき、僕は石に色をつけているわけではありません。石の中に詰まったエネルギーに触れているのです。
Movement, change, light, growth and decay are the lifeblood of nature, the energies that I try to tap through my work. I need the shock of touch, the resistance of place, materials and weather, the earth as my source. Nature is in a state of change and that change is the key to understanding. I want my art to be sensitive and alert to changes in material, season and weather. Each work grows, stays, decays. Process and decay are implicit. Transience in my work reflects what I find in nature.動き、変化、光、成長、そして腐敗は自然の中に流れる血液であり、エネルギーです。僕が作品を通じて表現したいものはそういうものです。僕は触ることで刺激を得ます。場所や材質や気候から反発を受けます。地球そのものから必要なものを得ます。自然は変化のさなかにあり、それを理解することが大切です。僕は自分の作品を通じて、材質や四季や気候の変化に敏感でありたいのです。作品たちは成長し、とどまり、そして腐っていきます。段階を踏んで変化していくことと腐敗してなくなっていくことはいつだって存在するのです。僕の作品が同じ状態にとどまり続けることがないのは、僕が自然の中に感じるものを写し取っている結果です。
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丹沢へハイキングに行ったので写真をアップロードしました。
ここから始まります。
Went hike in Tanzawa. Updated the photo album. Starts from here.
新宿から本厚木駅まで片道650円で行ける。奥多摩と並んでものすごくお手軽にいけて、かつとてもバラエティ豊かな山が広がるとてもいいところが丹沢。温泉も各種たくさんあってものすごく重宝する。
Access from Tokyo to Tanzawa is cheap and frequent. Train from Shinjuku to Honatsugi costs only 650 yen. Beautiful mountains and various hike routes + wonderful Onsen.
追伸 新宿から本厚木までは実は480円です。なんと1000円で往復できてしまう。安い。安い。
ワンコインハイクと呼ぼう。
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If you have ever been interested in the mysterious world of Origami (folded paper craft?) - click the above link. Anybody who is not astonished by his work will just have to give me an email, I will give you 1000yen.
コメントを入れれば入れるほど空しくなってしまう。
Via 2XUP
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Title: missing angles in our familiar views Background story / Title font
Author: a nomad technical writer living in Taiwan melts technology and communication in the Asian pot. Portfolio / Profile