さて、ツイッターから離れていて、戻るリハビリの一環として愛読する大庭亀夫くんのブログにコメントを書き始めたら長くなったので、自分のサイトにも載せます
亀夫君の記事:http://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/22/rieti/
橋下大阪市長が行った問題発言:http://www.huffingtonpost.jp/tag/hashishita
日本語世界では話題が「すごく個人的なこと」と「すごく社会的なこと」のどっちか極端にしか触れないのはなぜだろう、と自分でも思います。巷の会話を聞いていても、ものすごく身近で当人にしかわからないことを訥々と述べるか、ものすごくスケールが大きくて実感がわかない政治や社会の問題について延々と述べるので、どっちにしろ聴く気が次第に失せてくるのです。第三者になってみると、なんかどうでもいいな、とそのうち思えてきてしまうのです。現実感ありすぎで気が重くなるか、現実感なさすぎでつかみ所がないか。
英語で会話をすると、話題と自分との距離が近くなったり遠くなったりを簡単に調整できるので(というより、話題が自分との距離を自動的に調整してくれるようなところがあります)、そのときどきの話題や人に応じて会話と自分との距離が常に伸び縮みします。それがダイナミックな運動となり、会話を通じてお互いと肉体的に汗を流し、気がついたら3時間、心地よい運動を続けることなんてざらです。面白いことに、リズムにのってくるとはたで聞いてる人も入り込みやすいので(会話の距離がその人にとって適切になる瞬間はいつか必ず来るので、そのタイミングで飛び乗れます)、会話の輪が自然と広まっていきます。ダンスの輪が次第に広がるようなものです。
英語のそうしたダイナミックな会話の流れを過去時制にたとえれば、have beenの世界に似ているな、と時々思います。現在と過去の出来事のあいだに、常に何らかのつながりを持たせるhave beenの世界は、英語会話での自分と社会とのつながりに似ています。個人的な出来事と、社会的な情勢との間に細かいグラデーションがあって、ぶった切られていないから、会話はそのスロープの上でいったりきたりできる、そんな感じです。段差があまりないから、踊りながら行き来することだってできる。
振り返って日本語の会話は am と was しかない世界に見えます。今起こっているか(すごく個人的なことか)、過去に起こったか(すごく他人事なことか)、そのどちらかに固定されてしまい、両者の間につながりはない。会話していても、自分の事情と社会の情勢との間は完全に分断されているので、話題がなんであれ、どちらか一方に寄せなければいけない。話題がどちらか極端であればたいそう心地よいのですが、中途半端に身近な話題にとってはたいそう息苦しい世界だと思います。
例えば先日話題になった橋下発言については、彼が当たり障りのないことを言っていればあれは「他人事」できれいに処理できたのです。ところが彼が慰安婦についての意見を堂々と述べてしまい、それが日本全体の考えととられかねない勢いで国際社会に流れ、僕たちにとって奇妙に「身近な」話題に変貌してしまいました。これは実に、僕らにとって居心地の悪い状態でしょう。
発言自体は、僕には弁護の余地が見えません。(国際)政治的な思慮も、(同類と見なさない)他者に対する配慮も、決定的に欠けており、しかもそのことを自覚していません。いっそ「何もわかっていませんでした。勉強します」と言ってくれればどれだけましだろうか、と思います。失笑は買うでしょうが、少なくともはたから見える底知れない不気味さはぬぐえるはずです。北朝鮮のおぼっちゃまと、全く同じに見えると言うと言いすぎでしょうか?
しかし、それとは別に橋下氏を巡る日本での発言を見ていて、僕は終始違和感がぬぐえませんでした。彼をぶった切る側は「アメリカ/イギリス/中国/などなどではこんなことは起こりえない」と「手本とはここが違うよ」と指摘するという、よく考えてみれば日本で教師が生徒を叱る時に似ている調子です。肝心の、「手本」側が「なぜ」そんなことにしないかについての思考が、半自動的に途切れてしまうのも同じです。もう一方の意見は彼をめぐる状況を「分析」するように自説を述べ続け、次第に肝心な点から焦点がずれていくかのような印象を受けました。なぜかアメリカ軍の横暴や戦争の非人道性に焦点が移っていき、とんちんかんだったり、めんどくさそうな解説がつく。それらの言説には、「ずらす」ことが先立って、自分の意見でもって相手を本当に納得させようという意図は見えません。本当の目的は彼の発言のインパクトを中和することだったように見えるのです。とんちんかんなのは当たり前で、矛先をずらすことさえできれば、論点が向かう方向はどうだっていいからでしょう。
一見両極端に見える彼をめぐる意見は、しかし実は根っこでつながっているような気がします。彼を「外国ではこんなことはしない」と断罪するにせよ、彼の周辺や違う話題について語ることで彼自身への言及を避けるにせよ、結局両者は同じ効果を僕の中で喚起させるからです。「他人事」にしてしまうという効果です。結局、橋下発言の何がどう問題なのか、どうしてそうなのか、本質がわからないまま、という意味で、彼の発言を一人一人が自分個人と絡めて考えることがやりにくいもどかしさを感じるのです。自分とは異なるどこか遠い世界で起こっている出来事、にすべてが中和されてしまう、それこそが僕が感じた居心地の悪さの正体でしょう。これを日本語社会でいう「会話との距離」にあてはめれば、橋下発言にまつわるすべてを「自分」から可能な限り遠ざけ、「社会情勢」の領域に押し込めてしまおうという動きに見えます。
僕にとって、彼の発言を他人事にされることがどうして違和感につながるのでしょう?僕にとって、橋下氏が行った発言は「言語道断」ではあっても「他人事」ではないからです。日本で生まれ育った男性として、彼が口にした発言を聞いて「俺は絶対にこうは考えないな」と言い切れる人間がどれだけいるでしょう?彼が口にした意見の、少なくとも一部は、日本人男性が口には出さずとも心の奥底で秘めている「あるある」「いや実は俺も」「結局そうなんだわな」といった、「思い当たる」ものがあるはずです。でなければ、大衆の支持を得ることが最優先であるポピュリストの橋下氏が口にするはずがありません。彼は彼なりに、支持を得られると確信を得て発言したのだと思います。彼の本心であるかどうかは別として。だからこそ、僕たち日本人男性が脊髄反射する反応は「そんなまずいことを言うんじゃねえ、馬鹿が」という、調子にのって言い過ぎた道化者に対する恐怖が多少なりともあると思います。
僕たち(特に日本人男性)は、彼の発言が自分の心の琴線に多少なりとも響いてしまったことを、認めたくないのだと思います。特に、彼をバッシングする「欧米」のメディアの反応を見てからは。誰だって自分は「先進国」の「文明人」だと思いたいから。でも、僕らが普段使い慣れた日本語に則して彼の発言を自分なりに処理しようとすると、「自分と同じ」と「自分と無関係」の二者択一しか見えません。橋下は自分と同じ、とはみなしたくない、いや見なせない、となったら残る手段は一つだけです。どんな手を使ってでも、彼が自分とは全く関係のない存在であることを証明するだけです。
彼の言動を「外国とは違うよ」と言えば、自分は(外国のやり方を知っているか、もしくは外国とつきあいがあるから)違うよ、と示唆すると同時に、彼の言動の闇の深さから目をそらして「先進国にまだ達していない」と文化の成熟度の問題にできます。また、彼の言動を真っ向から否定せず、違う論点を取り上げることについては、問題に対する焦点と、自分自身に対する焦点を二重にずらす効果があるはずです。真っ向から彼を否定すると、それは真っ向から自分の一部を否定することでもあるので、嘘っぽさが見えたり、見破られたりする恐怖があります。何よりも、本当の論点についてしゃべればしゃべるほど自分も彼と同じ思考にとらわれていく恐怖がある。言語そのものに「同化」の力が内在されているから、直接何かの話題について語ると、磁石のように吸い込まれてしまう。だからこそその点をあえて「少しだけ」ずらすのが一番楽な防御方法になるのではないでしょうか。
以上、日本語を扱うがゆえの「話題と自分との間に適度な距離をとるのが非常に難しい」問題から派生していると思います。僕らがここまで彼のことを「他人事」にしてしまいたいのは、「彼が自分とどの程度近いのか、離れているのか」が正確につかめないし、つかんでも距離を保ちにくからです。反発する磁石を適度な距離に保つように、常に緊張を強いられます。ましてや会話の途中に距離が変化するなんて、相当エネルギーを消耗するでしょう。英語であれば、たとえ自分にとって「痛い」話題であろうと、話題の捉え方を調整することで距離が自動的に調整され、少なくとも余計な気苦労はしなくて済むだろうに。
僕自身は「手本」との差異の強調も、「中和」もしたくありません。できれば、こうした事件について、自分自身とのかかわりはどの程度あるか、を常に念頭において、自分とどこが同じで、どこが違って、自分はどう考えたのか、常に「僕自身」の立場から話しつつも、話題をつかずはなれずの距離におく訓練を日本語でも気をつけていきたいと思います。
しかし、独り言やブログならいざしらず、誰かとの会話の際には僕だけがそのような態度をとっていてもあまり長続きしません。なので僕も日本語で深い話題を軽く扱うときには、どうしても人を選びます。はっきり言ってしまえば、外国や外国語の考え方を受け入れられる人達です。ひょっとしたら、海外在住かつ他言語をマスターした日本人同士で、そのような新しい日本語の使い方が広まった結果、同じ言語であれど違うものが派生・進化するのではないか、と思う時があります。僕はそれを待ち望んでいるのでしょう。確実に。