Koboの初期動作不良から見える箱庭モノ作り文化

少し前の楽天Koboが「動かない」と炎上した件は考えさせられました。ことあるごとに、「説明書が役に立たない」と書かれています。説明書を作ることを生業としている人間として、これは本当に説明書担当が気の毒になります。

おそらく本当の原因は、説明書ではなくて機器が思った通りに動かなかったことだろうと推測されます。説明書がぺらぺらでたいしたことが書かれてないのは、アマゾンのKindleも同じだからです。説明なんかいりません、すぐに使えますよ、が売りだから説明書を薄くした、それは楽天の戦略として正解だろうと思います。(アマゾンの物真似をするという意味でも、純粋に使いやすい機器を求めるという意味でも。)

Koboが機械単体で完結する製品であったならば、多分購入初日に動作しない、などというお粗末な事態は起こらなかったと思います。なんといっても日本企業のやることですから。ある完成形をイメージして、そこに向けて問題を排除していく作業では、日本企業にかなうものはいないだろう、と思います。ファイナルファンタジーシリーズのような複雑怪奇なゲームソフトを、バグらしいバグ抜きで出荷できるお国柄が、なぜ機器の初期設定ができない騒ぎを引き起こすのか。

思うに、Koboという機械が「箱庭」ではなく「公園」であるのを理解していなかった、が正解だろうと睨んでいます。「箱庭」は単体で世界が完結している製品を指します。外部とつながることはありますが、切れ目がはっきりしているため、自分の領分では全てが明確に役割づけられています。冷蔵庫やテレビ、あるいは旧世代の電子リーダーなどもその範疇に入ると思います。そこでは、品質管理は疲れるけど、やりやすいでしょう。ルールから外れたものをチェックすればいいだけですから。

「公園」は世界と交わることで初めて成り立つ製品です。外部と常につながっており、常に他者が訪問し、全てが決められた通りに動くなんていうことはありません。(パソコンは常に外部と接続している、と思いましたが、OSという外部接続担当部品が全て外国製なので、ハードを担当している日本企業はやはり箱ものを作っていると思います)Koboはまさに公園型製品です。機器とユーザーとサービスが有機的につながって初めて底力を発揮する(はずです)。しかし、ネットの向こう側にいるユーザーが「想定外」の行動を取り、火を消すのに四苦八苦したのでしょう。

この問題を、ハード、ソフト、ヒト、サービス全てを含めた「世界」を動かすのは、機械のバグを取る作業の10倍難易度が高いのだ、と取るべきでしょうか?僕は、箱庭と公園の品質管理は全く違う作業なのだ、と考えています。日本的な品質管理など絶対にできないだろうアメリカ企業のアマゾンがうまくやれているのだから、回答は従来の箱庭品質管理の延長線上にはないはずです。

箱庭を管理するときに行うのは「決められたこと以外はしない」です。公園を管理するときに必要なのはその逆の態度で、「禁止されていなければ何をしてもいい」ではないでしょうか。そうした開放的な世界では、一定の行動を想定して、それにあわせて動作するように作るのではなく、やってはいけないことが起こった際の防止策のみ施して、あとは好きにしてください、というふうに発想を変える必要があるのだと思います。

日本がどうして箱庭製品が得意なのかといえば、職場環境を見れば一目瞭然ですよね。「決められたこと以外はできない」ではありませんか。便利で近代的で清潔なのに感じるあの独特な窮屈さは、そこから来ているのだ、と台湾で働き始めてから僕は「公園」的に「禁止されていること以外は何をしてもいい」環境で働き始めて気がつきました。壊れにくく、閉じている日本製品は、日本の生活環境のコピーだった、と僕は今では考えています。そして、決められたこと以外の事態が決められたこと本体を浸食するとき、箱庭型モノ作りは脆弱さを露呈します。原発事故だってそうでしょう。

アマゾンが「誰が使っても思い通りに動作する」Kindleを作れたのは、「公園」型の仕事環境が得られるアメリカの影響が大きいのではないか、と勘ぐっています。閉じずに、アメーバのように外へ広がるネットワーク系の製品は、同じように常に流動する生活や仕事環境と接していて初めて作れるのでしょう。楽天は英語を公用語にしたけど、さすがに公園文化を社内に作るところまではまだできていないのでしょうね(作る気があるのかどうかは別の問題です)。

箱庭から公園へ:この潮流は世界的なもので、日本企業もそう変わらないと生きていけない、と言われていますが、それでも端から見ると何もせずに箱庭を作り続けて死んでいく企業が多数見えるのは、結局僕たち一人一人について、自分の生き方を変えるのは不可能に近いほど難しい、という身もふたもない真実を見せてくれています。