日本企業が入社してくる若者に求める第一のスキルはコミュニケーション能力であるそうです。なにごとにつけてもあやふやな昨今の企業事情において、この点は数少なく、揺るぎないポリシーになっているようです。
一見、もっともらしい主張のように思えます。どんな企業であれ、人が集まってできあがった組織ですから、仕事の基本は他人との意思疎通(コミュニケーション)になります。その意味では、「コミュニケーション能力」が重要なのは確かにそうでしょう。
でも、どうしても香ばしいにおいが漂ってきて、無視できません。何かが現実にそぐわないのです。その何は、「コミュニケーション能力を求める側のオヤジ集団にコミュニケーション能力が欠如している」という点に尽きるでしょう。どの口がコミュニケーションなどと抜かすのですか?
日本企業のおじさん達が、世界中で一番意思疎通のとれない集団であることはトラブルの事例をみたり定年離婚の件数をみるまでもなく、実際に彼らと仕事をしてみた方は自明でしょう。彼らには「自分の言いたいことを相手に正確に理解してもらうまでが意思疎通なのだ」という概念がありません。そもそも自分の言いたいことを把握できていない場合が多いし、相手に理解してもらうための努力もできていません。日本組織で長く勤め、そして人事権を握るような立場の人になればなるほど、相手(下々の社員)に自分の意を汲み取ってもらう意思疎通のやり方に慣れきっているはずです。おじさん達が持っているのはコミュニケーション能力ではなく、阿吽の呼吸という美名の裏に隠れた古いしきたりです。
そう考えると、謎の「コミュニケーション能力」というキーワードの正体が明らかになります。これは「俺たちの言いたいことをうまく理解して、手足のように働いてくれる、便利で生きのいい若者が欲しい」という中高年の願望をスローガン化したものでしょう。「空気を読め」ですね。勘違いした若者が「コミュニケーション能力」を、お互いに依存しない自由で現代的な意思の疎通だ、そうか息苦しくなさそうだ、と勘違いして入社してくる可能性もある、という半ば詐欺的な効果もありそうです。
そもそも、「コミュニケーション能力」という言葉がすでに、「もっともらしいけれど実はあいまいな言い方でしか自分の欲しいことを表現できない中高年」の立ち位置を見事に、鮮明に、誤解のしようがないほどくっきりと映し出しているではありませんか。言葉遣いは本当に人の真の姿を炙り出すなあ、と感心している次第です。