受け止め、言葉にしたため、手放す

前回のエントリーからだいぶ日が経ってしまいました。いろいろなことを考えていて、半ば引きこもっていました。ツイッターは欠かさず眺めていたので、引きこもりよりもストーカーっぽいのですが。

正直、最近黙り込んでいた原因は自分の進む方向を決めなければ、あと何ヶ月でこれだけ達成しなければ、何かやるからにはここまでの水準に達しなければ、と自分を追い込んでいたことが原因です。自分には決断する力が足りない、だから方向や目標など大枠を決めてしまおう、そうすれば自分も奮起するだろうし、詳細は自由にできるから、自分を制限するわけではない:ロジックとしてはつじつまがあっているので、やるぞ、と自分にハッパをかけていました。

でも体は正直なもので、頭がハッパをかければかけるほど、体からエネルギーが抜け、ついには勤務時間以外は全て疲れて寝ている、という状態に発展しました。不思議なもので、そういう時には自分が必要としているものや人に巡り会うようになっているようです。結果的には素晴らしい人たちと会い、自分の状況を整理した結果、まずは頭と体をつなげてみました(詳細はいろいろありますが、結果としてやったのはそういうことです)。

分かったのは、自分は目標や期待値をモチベーションにできない、という事実です。他人から認められるのは大好きですが、僕の場合、それはエネルギーにならないのです。期待に応えよう、という願いはいつでもあります。でもそれは、応えられなければ自分に価値がない、という自信の無さの裏返しでした。他人からの期待に応えない→自分は認められない→認められなければ自分には価値がない→自分には力が無く、何もできないから。と、つきつめればそこまで、負の感情の連鎖が走っていたようです。

肝心な点は、そうした他人の期待も自分の思い込みも、全て自分の中で作り出した虚構だと言う点です。誰も僕に「こうしないと嫌いになるぞ」と要求していないし、またその要求があっても、僕は応える必要などないのです。僕は自分の頭の中で架空の「期待する他人」や「力の無い自分」を作り出し、自分にプレッシャーを与えていたようです。まあ、体がへなちょこで拒否して良かったと思います。これで、架空の期待に応えれていたら、今頃努力しすぎて廃人になっていたかもしれません。

というわけで、ブログもこれまで「定期的に更新せねば」と自分を追いつめるえさになり、遠ざけていたのも、あらためようと思います。今後はブログを到達点として考えるのではなく、通過点として捉えることになるでしょう。自分の中に生まれるあぶくのような好奇心を受け止め、それを言葉に変換し、自然に手放す。自分から離れた後、どうなるかにはこだわらず、できるだけ「息をし続ける=受け止め、言葉につつみ、放す」その行動を長く継続することに集中していきます。(手放した後に誰かがそれを読み、楽しんでくれると最高ですが)

おまけ:気持ちも切り替わり、ブログのネタもたまってきたので、そろそろかな、でもどうやって踏み出そう、と悶々としていた頃に糸井重里さんと高木新平さんの対談を読み、背中を押される感じがしたので紹介します。「何したっていいんだよ」です。(前編 / 後編)ああ、あれだけ役に立たないとわかっても自分はまだ目標を餌にしようとしてるのか、と気づき、同時に「やるならいつでもやろう」と軽くなった次第です。