先進国で失業率が高止まりしていることが話題になります。スペインでは若者の失業率が50%になった、というのはちょっと現実離れしています。10人いたら5人に仕事が無い、というのはさすが超現実主義のダリを輩出した国だ、とまで感じてしまいます。
しかし、僕が通っているスペイン語教室の先生を見ているとそんな話も現実味を帯びてきます。彼は25歳、スペイン語に加えて英語も当然扱え、台湾での生活が二、三年程度ですが既にペラペラに中国語を操ります。言語のみならず教養も豊かで、ユーモアを上手に扱い、それでいて大人の態度を保ち、しかもイケメンです。ありとあらゆる意味で能力が高い彼が、世界をまたにかけるビジネスマンどころか、語学学校の教師をやっているという現状が、欧州の危機を体現しているような気がします。(彼は自分の意志で台湾に来ているので、落ちこぼれているわけではないのですが)
ここにいたってなぜ仕事が突然ないのだろう?今まで真面目に仕事してきただけなのに、というのが僕らの正直な感想でしょう。多分、きちんと仕事をしてきたからこそ仕事が無くなってしまうのです。仕事の醍醐味は、改善にあると僕は感じています。今より何かをもっとよくできる、という実感が仕事の面白さだと、以前書きました。その当然の帰結として、世の中の仕事がごく少数の「簡単な仕組みを作る側」と大多数の「仕組みを簡単に回す側」にわかれつつあるのだと思います。それが一番効率がいいんだから。
また、全てがハイスペックになってしまっているのもあります。僕が大学を卒業した10数年前、右も左もわからない学生を拾って、数年かけて一人前に育ててくれる企業はたくさんありました。いまや全てが即戦力です。経験のない人間に経験を求める理不尽さは僕は想像すらできません。昔に比べて、一人の人間がこなせる仕事の量も範囲も、とんでもなく増えているようです。
この、全てに専門性とロボットのような完璧さが求められる現状を作り出したのは、僕たち自身です。まじめに仕事を行い、改善を重ねた結果が、完璧さを最初から持っていないと何も出来ない窮屈さを作り出したのです。僕はそのこと自体を否定も肯定もしません。単なる現実ですし、窮屈さの裏でとんでもない快適さをもたらしたことも承知しているし、三丁目の夕日の時代に戻れると言われてもきっぱりと嫌だ、と言えます。
それでも現状は自分たちの努力の当然の帰結だ、と肝に銘じておきたいのは、失業の恐怖に思いが巡るとき、つい無能な政治家やグローバル化や利益第一主義の経営者など、赤の他人を責めたくなるからです。自分の精神的な健康のためにも、無駄な責め合いをしないためにも、一歩立ち止まって、そもそもは僕たち一人一人が良かれと思って行った行動が今の社会を作り、そこに高い失業率という副作用がかかったのだ、ということを常に思い出しておきたい、と考えた次第です。
希望もあります。僕たちの、仕事に対する姿勢は昔と変らないと考えています。あくなき改善です。ひょっとしたら人間に基本的に備わっている動機なのかもしれません。この姿勢が今の超効率社会を作ったのなら、その副産物の失業の問題が十分に大きくなったら、それに対して「改善」の姿勢が働き、新しい仕事のあり方が徐々に作られていく、そんな予感がしています。「改善」により苦しくなり、「改善」により救われるけど、「改善」のありようは同じ、でしょうか。