表現するということは己をさらけ出すこと

とまあ、タイトルには当たり前のことを書きましたが、表現するということは全て、自分を見せることにつながるんだろうと考えています。

以前、自分に分かっていることは他人にもわかる、と書きました。書いたりしゃべったりなどの表現も同じで、自分が発信していてなんか違うな、と感じるものは、確実に他の人にも同じように違和感として伝わるのだろうし、自分がこれだ、と感じたものも同じように確実に誰かに伝わりでしょう(全員とはいいません)。

相手が書いたりしゃべったりした内容を理解してくれる、というのとは少し違うかもしれません。誤解されることはしょっちゅうですし、伝えたいことなんて永遠に100%伝わらない、と僕も思います。それよりも、自分という存在が、等身大で相手には常に見えている、というのが正解ではないかと思います。相手がどう捉えるかは別として、自分が発信している内容から透けて見える自分と言う人間そのもののありようは、たとえ自分が嫌だと思っても確実に相手には届いていると考えています。それでも誤解が起こるのは、相手もまた自分と同じく、現実をすんなりと受け入れるわけではないからです。

ソーシャルメディアやブログのおかげで、僕らは息をするのと同じような感覚で表現を行うようになりましたが、それは同時に自分自身を常に公共の場に晒し続けるということでもあります。僕たちは服を来て歩き回っているつもりでも、実際は素っ裸でいるようなものです。全てが丸見えになっている時代、いったい何を表現したらいいのか、混乱することがあります。そんなときは僕はホラー小説家、スティーブン・キングの半自伝的な物書きの指南書、On Writingを参照します。

Now comes the big question: What are you going to write about? And the equally big answer: Anything you damn well want. Anything at all…as long as you tell the truth.

肝心な問題に迫ってみよう:何について書けばいいのだ?それについては同じように肝心な答えがある:書きたければ何を書いてもいい。どんなことでも・・・真実を書いてさえいれば。

ここで言うtruth=真実は、fact=事実と異なります。真実は、自分にとって本当のこと、という意味です。何を書いてもかまわないけど、自分に嘘はつくな、とキングは言っていて、あらゆる物書きの指南の中で最も僕の心に響いています。この考え方はおよそ表現と名のつくもの全てに適用できる、と思います。何をしてもいいけど、自分に嘘をつくな、ですね。(注意:何をしてもいい、は「何をしても許される」とはもちろん違います)