津田さんの本の中で気に入った箇所を引用した際、本を見ながら手で打ち込んだので10分くらいかかり、指がしびれました。(おまけに、本を読みながら折り目をつけておく必要がありました。折り目を付け忘れた箇所は埋もれたままです)佐々木さんの本の場合、キーワードを検索してPDFからコピーしたので、「折り目をつける」手間を含めて2分で終了しました。それを応用して、本を他の人に推薦する際、気に入った箇所を抜粋してアマゾンやブックワンのリンクと共に送る、ということも気軽に行えます。
こういった手間を繰り返していても、もはや紙の本の時代は終わりつつあるな、と感じます。紙の手触りとか、モノへの愛着とか、そういった感傷に浸る間もなく、体が「めんどくさい」と訴えている声には勝てません。いったん便利さを味わってしまったら、僕らはもう後戻りできないように作られています。先日のツイートを引用します。
音楽業界やビデオ業界、出版業界の凋落が教えてくれる真実は、人は便利なものは絶対に手放さない、だ。数秒で手元に魔法のようにコンテンツが出現する体験を味わうと、腰を上げることすら億劫になってしまう。古い業界が戦っているのはインターネットではなく、僕らの生理感覚だ。そりゃ勝てんわ。
— 加藤勲 (@isaokatojp) May 19, 2012
「手入力にすることでより理解が深まる」という意見もあるでしょう。僕の両親もそれを信じて、僕は子供の頃、夏休みの間毎日朝日新聞の天声人語を書き写していました。(効果があったかどうかはわかりませんが、それ以降天声人語を読まなくなったので、無意識の領域で良い文章と悪い文章を見分ける能力は身に付いたのでしょう。)
自分で書くことにより、洞察が深まり、関連した考えがわき起こり、考えが自分のものになる、というのは事実です。なぜ僕を含めて多くの人が一文にもならない文章を書き続けている理由の一つは、それによって初めて、自分が何を考えているかが分かるからです。書く=考える、ですね。
ただ、他人の考えであれば、あえて手で打ち込む必要はないのではないか、と思います。どれだけ自分の心に響いても、結局は他人の考えなのです。それを「自分化」するより、それを鏡のように利用して自分の考えを炙り出す方が健康的ではありませんか。