本を読んだ後に、良い本であればブログなどで紹介してみたい、と自然に思えてきます。その中でも、ときどき「この本は紹介しなければ」と焦燥感にとらわれる本、というものが存在します。「当事者の時代」はそのような本です。いったいこの本が何なのかは、「はじめに」で明らかにされます。
しかし私は巷間言われているような「新聞記者の質が落ちた」「メディアが劣化した」というような論には与しない。そんな論はしょせんは「今どきの若い者は」論の延長でしかないからだ。
そのような情緒論ではなく、今この国のメディア言論がなぜ岐路に立たされているのかを、よりロジカルに分析できないだろうか—-そういう問題意識がスタート地点にあった。つまりは「劣化論」ではなく、マスメディア言論が2000年代以降の時代状況に追いつけなくなってしまっていることを、構造的に解き明かそうと考えたのである。
僕が「当事者の時代」から読み取った内容は次の通りです。著者自身が身を置いた、戦後のマスコミに高潔な中立性や思想は無く、政治家の側にも複雑怪奇な策略などありませんでした。彼らは単に、自分の知っているやり方で自分の知っている人と、自分の知っている仕事をしていただけなのです。そこには壮大な理想も深淵な陰謀もありません。
毎日職場に通勤して上司や得意先とのしがらみに絡み取られつつ、安定した生活を求める市民がいて、たまたま「記者」や「政治家」という肩書きがあるだけです。共同体で相互依存の人生を送り、本音と建前を使い分け、自分の役割を演じ続けて破綻のない人生を送ろうと試みるーこの意味において、マスコミも政治家も、そして外野にいる僕たちも、同じなのです。
僕にとっての「当事者」とは、僕たち自身とマスコミの間に、本質的な意味での違いなどなかったのだ、という赤裸々な事実のことを指しています。この本は日本社会の旧枠組みの取扱説明書であると同時に、その古い枠組みを作っていた「彼ら」は立場が違うだけで、僕ら一人一人と同じだった、という身もふたもない結論を導き出しています。
そしてこの本は、なおかつそこからの決別を宣言する書でもあります。失敗した人間関係について考え抜いた結果、自分が自分だったから必然的に破綻したのだ、と絶望的に悟り、それでも「わかる」ことが希望につながるようなものです。
では「わかった」後にどうやったら当事者として生きていけるのか?著者が終盤で語る内容を引用します。少々長いですが、著者が本の拡散を推奨していることもあり、大丈夫でしょう。
「被災者の前でそれが言えますか」 あるいは、福島の母子の気持ちを勝手に代弁する多くの人たち。
しかしこのような人たちを、「当事者であれ」と批判することはできない。なぜならそのよう にして他者に当事者であることを求めるという行為自体が、すでに当事者性を帯びていないか らだ。本多勝一に南ベトナムの解放区の村の幹部が語ったように、「日本人が自分の問題で、自 分のためにアメリカのひどいやり方と戦うこと、これこそ、結局は何よりもベトナムのために なる」のだ。他者に「当事者であれ」と求める前に、まず自分が当事者であることを追い求める しかない。 これはマスメディアと視聴者・読者の関係においても同じである。マスメディアに対して、視 聴者・読者である私が「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者として の要求であるからだ。 そしてさらに、これは本書の書き手である私と、読者であるあなたとの関係においても同じで ある。 私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求 であるからだ。 だから私にできることは、私自身が本書で論考してきたことを実践し、私自身が当事者である ことを求めていくということしかない。 そしてそれはおそらく、マスメディアの記者たちにも同じ課題が用意されている。 そしてさらに、それはソーシャルメディアに参加する人たちにもやはり同じ課題が用意されて いる。
そう、あなたはあなたでやるしかないのだ。
そりゃそうです。「お手本」を示してそれをなぞればいいのであれば、昔に逆戻りではありませんか。「お手本」を求めるのはやめて、一歩一歩手探りで自分だけの人生を作るしか無い:人生指南で必ず繰り返される決まり文句ですが、一点において、これまでの指南と異なります。「指南」しないからです。こういう考えがあります、それだけです。残酷ですが、すがすがしい世界です。
でも「推薦」ならできますよね。まずはダウンロードして「当事者の時代」を読みましょう。 Kindleで読む場合は、epubファイルをダウンロードした後、Convert FileサイトなどでMobi形式に変換すれば読めます。それすら面倒なら、PDF形式までついてきます。このような良質の本を、誰にでも、どこからでも読めるように電子形式にして、さらにワンコイン価格に設定してくれた佐々木氏に改めて感謝です。
追記
かつて日本に住んでいた頃、僕は長い間村上龍の本をむさぼり読んでいました。大学まではなんとなく卒業できた僕ですが、会社で全く仕事ができず、精神的に不安な日々を過ごしていました。周りの人間は透明なインクで書かれた指示に従って生きており、僕だけがその隠されたコードを理解できずに生きていた気がしていました。いったい自分を悩ます「しきたり」とはなんなのだ、どんなルールでこの世は支配されているのだ、教えてほしいーそういう一心で、世の中の仕組みの解説書を探していました。その中で、村上氏の著作だけが、魑魅魍魎な社会の裏側を(外国の自慢話やはったりやセックスに混じって)かいま見せてくれる貴重な情報源だったのです。
しかし、その村上龍ですら、彼の主催するJMMでも結局はマスコミや旧態以前なしきたりの全容をわかりやすく書き出すまでいたらず、批判を中心にしたままでした。「当事者の時代」はようやく、僕が苦しんだ日本社会の。社会に適応できずにもがき苦しんでいた20代にこの本があれば、自分の人生もずいぶん楽になっただろう、と思わずにいられません。
いったい戦後の日本社会とはなんだったのか、について掘り下げて知りたい方はあわせて、片岡義男氏の著作、「日本語の外へ」と「日本語で生きるとは」をお勧めします。10年以上前に書かれたもので、今の時代を読み解くことはできませんが、昭和という時代と、日本人を読み解くならば必読です。しかしどちらも新品で手に入らないとは・・・