ユニークさが「普通」になってしまう海外生活

なでしこVoice代表の濱田さんのインタビューサービスのシリーズです。第一弾はこちらへ、第二弾はこちらへ

濱田さんがご自身の体験を語られた中で印象に残ったのが、自分も含めていわゆる「海外組」と呼ばれている人たちは以外と情報発信をしていないという点です。日本にいる方々(濱田さんも含めて)は読みたがっているのに、ですね。僕もなでしこVoiceを読んで、これだけ面白い(=変わった)経歴の日本人の方が海外に多くいるのか、と思うと同時に、濱田さんたちの活動があるまで、自分は彼女らの活躍を知らずにいたのだな、と少し怖くなったことを思い出しました。

これは海外の方々が情報を出し渋っているわけではないでしょう。海外からの視点が大きな売りになっているブログはいくつもあります。ただ、実際に海外で活躍している人の数に比べて情報発信する人の割合が低い(あるいは、情報発信の頻度が低い)のは僕も感じます。僕自身がまずそうです。おかげで、海外に住むことが未だに「特別なこと」として捉えられている原因はそこにもありそうです。

なぜ、ユニークな立場にいる方があまりそのユニークさを共有しないのか?僕個人の経験で言えば、一番大きな原因は、「自分はユニークだともはや思っていない」からなのではないでしょうか。

僕は日本にいたころ、「普通だ」と言われたことがありません。本人は普通になりたくてしかたないのですが、何をやっても何かが微妙に違い、「あいつは変わっている」というお墨付きをもらいます。帰国子女の宿命ですね。で、今や海外に住んでみて、この「普通病」から完全に解放されてしまいました。

まず、「この人は外国人だし、悪意はないから」ということで地元の人から受け入れられています。「ちょっと違う」ということならひっかかるけど「全く違う」であれば大丈夫、です。日本で外国人タレントが受けるようなものですね。(ちなみに華僑の台湾人は、「ちょっと違う」ということでいろいろ僕が日本で受けた苦労をしているようです。)

次に、僕の交流範囲に、同じように流れ着いた?外国人が多いので、比べるべき「標準」が存在しません。「違っている」という概念すら薄れてしまい、あるのは「個」だけです。皆お互いに違っているせいで、日本であれほど気を使っていた自分の「違い」もいつの間にか消えてしまいます。自分の境遇は自分のものであって、別に一般化するものでもない、と自然に考えてしまい、「違いを表現したい」という欲求が消えてしまうのです。

今回、濱田さんと話すことで、日本にいる方々が海外の情報を知りたがっているのだ、という当たり前のことを再認識しました。それは台湾に来る前の僕の姿でもあります。あれほど海外の情報に飢えていたのに、いざ満たされるとすっぱりと忘れてしまうってなんて人間は(自分は)都合がいいんだろう。まあ、それをふまえて今後は自分が持っている情報や考察を継続して出していくことにします。

いったいいつになったらお前自身の体験を語るのだ、と思いますが、どうもまだ「自分の人生って別に対したことないんでは」と考えるバイアスがかかっているようです。インタビューの内容についてはまた逐次書けるときに書きます。インタビューは良かったのかって?3回エントリーを書いた、という時点でおのずとその答えは明らかですね。改めて濱田さんに感謝です。