最近、「もっと」についてよく考えます。こんなつぶやきをしました。
「もっと」という言葉を聴くたびに違和感を感じるのは、その裏に「今やっていることは変えないし、なくさない」が聞こえるからだ。不安にとらわれた人にとって実に都合がいい考え方ではないか。もっとやる必要なんかないよ。今やっていることをやめたり、変えるんだよ。怖いけど、それが一番効くよ。
— 加藤勲 (@isaokatojp) May 9, 2012
かつて東京中野坂上で中国語を学んだ林先生からのつぶやきについて、こう反応しました。
単語を覚えるのは足すだけだけど、原理を覚える=自分を原理に合わせる=自分を変える(過去を否定する)になっちゃうんで、無意識に嫌がってしまいます @tao1tao: 原理を拒否する人の脳ってどうなっているのかな。たくさん単語が覚えるのに、原理を示す一文だけ覚えられない。どうして?
— 加藤勲 (@isaokatojp) May 18, 2012
根底にあるのはどちらも同じです。自分を変えたくない、です。不安にとらわれるから、何かを足すことで埋め合わせようとする。甘いものをむさぼり食うのも、語学学習で単語だけを一生懸命詰め込もうとするのも、仕事がうまくいかない状況に対して「もっとやるんだ」と追い込むのも、みな現実逃避、という意味では同じなのでは、と思えてきます。
何かを始めることは、「やめることとセットにする」という考え方がありました。たしか梅田望夫さんが提唱していました(「時間の使い方の優先順位」を変えるにはまず「やめることを先に決める」ことである)。でも、これでも足りないと僕は思います。「セットにする」と考えると、まだ「つけたし」の発想にとらわれてしまうからです。
いっそのこと、「やること」「足すこと」から一歩離れて、「やめる」「変える」だけやってみる、と割り切った方がいいのでは、と考えています。そうすると、問題は一気に一般論から個人の事情に降りてきます。今までの自分を否定すること:不安なときに一番やりたくないことですけど、一番必要なことだと思います。