言語が違えば疲労も違う

さて上海にて丸一日客先での打ち合わせを終えた。

英語がメイン、場を和ませるためと世間話を行うために中国語、のちゃんぽんで朝から夕方まで過ごした直後にすごい量の疲労を感じた。いまさらながら、日本で感じるものと質が違うようだ。

同じ「疲れた」とため息を漏らすのでも、日本では「退屈した」というのがだいたい主な感情になる。あまり思考力を使わない代わりに、時間を無駄遣いしたのでは、という感じがつきまとうことが多い。体力を消耗するので、疲れは腰で感じる。今日は「脳を酷使した」がメインになり、頭痛と共に「もう何も考えられない、寝たい」とばかり思ってしまう。知力を消耗するので、疲労は頭から来る。

単に言語を切り替えるだけでも疲れるのだが、英語にしろ中国語にしろたとえすらすらと話せたとしても、日本語を使うより疲れる。なぜか。結論から先にしゃべることが多いので、言いたいことをまず凝縮して、簡潔にわかりやすく頭の中でまとめる作業が常につきまとうからだ。中国語はやや「事情」から説明する傾向があるようだけど、敬語がない分日本語よりものの言い方はストレートになる。結論にたどりつくスピードは確実に日本語より速くなる。

日本語でしゃべるときは多分に気を使うが、いったん「場の空気」だの「暗黙の了解」だのを把握してしまえば、思考能力はそんなにいらない。いや、多くの場合「頭を使う」=「その場を支配するルールを把握し、それに最も寄り添った回答を探す」になっているような気もする。自分の考えをまとめる作業ではなく、その場で求められている答えを探り当てる作業だ。受験勉強の延長みたいだ。それに、まず背景から説明することが許される。説明しているうちに頭の中が整理されて、結論にわりあいすんなりとたどりつける。困ったときは紋切り型のせりふをはけばよい、という便利な逃げ道も使いやすい。というか、そんなお仕事をしてきたのですね、私は、と気が付いてなんか暗くなってきた。