一緒にいて疲れることのない友人と時間をすごすと、必ずそのあとに興奮と寂しさが訪れる。
気分が高揚すると、電車の中吊り広告にのっている週刊誌の見出しがどうでもよくなる。その手のキャッチフレーズはとにかく人の目を引き付ける目的で書かれているので、ゆらり揺られながらついつい読んでしまい、楽しみながらも軽く自己嫌悪に落ちて、めでたく疲れたサラリーマンと化して家路につく。
昔読んだ筒井康隆著「文学部唯野教授」に大学教授の面々の幼児性がこと細かく書かれていた。定例の委員会に出席し、教授陣でも上位クラスの連中が研究発表と称して自慢話と演説を垂れ流し、いつか教授になりたいと希望する腰巾着がそれに質問などしたりして演説はさらに伸び、終わったら全員そろって寿司屋で宴会が始まる。「くだらない」と毎回誰かが必ず捨てセリフを出すけれど、誰もそのくだらなさをあらためようとしない。電車の中吊り広告を読んで「低俗だ、世も末だ」と悪態をつくのも同じ、だ。
知っている人間と充実した時間を過ごすと、中吊り広告のようなものが一瞬本気で、どうでもよくなる。自分たちが面白いこと、やりがいのあることを追求すればそれでいい、と本気で思える。そう思うと、かえって広告に対して敬意を表する余裕も生まれる。プロがやる仕事からでる隙の無さ、のようなものを観察するのであれば広告以上にすばらしい媒体はあまりないかもしれない。
もうひとつ感じる寂しさは、充実した時間をすごした「場所」へやってくると起こる。場所は変わらないけど、一緒にその時間をすごした人間がそばにいないときだ。そうやって楽しいときをすごした場所へふと通りかかったりすると、そのときの感覚が体によみがえってきて、少しの間本気で寂しくなる。誰かを問わず電話して呼び出したくもなる。
前味わった体験をもう一度、と考えるのは間違っているとわかりつつ、いつも頭に浮かんでくる。よい経験はマッド・サイエンティストが好んでやる実験の成果のようなもので、絶対に同じものは再現できない。また、同じものを再現したいと願うさもしさが前面に出ると誰もが敬遠してしまうので、それを振り切るために、新しいものを探そうか、と今までとは別の方向へ向かって歩いたりする。結果的に別のよい経験につながったりする。そうならなくても、なにかあるだろう、という希望は持てる。それは無知であるがゆえに味わえる快楽だ。経験を積みすぎたあとではできない。年をとるということは体力がなくなるだけじゃなく、知りすぎるということでもある。
話が脇にそれるが、みんなどうやって老後をやり過ごすのだろう。年をとってから若い頃にあまりやれなかったことをやる、ことにどうしても違和感がある。もっと旅行に行こう、映画を見よう、本を読もう・・・ 若い頃の記憶は絶対に消せないから、所詮2番煎じに過ぎないことはわかっているはずだ。また、若い頃にやりたかったことと年をとってからやりたいことは本当に一致するのだろうか?
もとへ戻って、こうした形で、よい人間関係では充実感からでも、寂しさからでもお互いに刺激して変わり続けていける。どう努力しても変わりようがない部分はみんな持っているし、それを気質と呼ぶのだから変わることを怖がらずにどんどん新しいことを始めればいい。ときれいにまとめられるけれど、やっぱり昔ながらの感傷を引きずりながら生活は続く。