commitment

金曜日に落ち込んでいたが、よく考えたら落ち込む理由は大してない。
財布の中に金は入っていなかったし(それは財布とは言わないのだが・・)、カードが使われた形跡も無い。免許証などの再発行の手続きが面倒くさいだけだ。携帯電話は博多駅にあった。メールは復旧した。客先で指摘されたり発見したりしたことは全て自分の糧になる。何よりも人間関係で困っているわけではない。
不幸、という言葉を使ったのは間違いだし失礼だ。自分の予想していないことが起こった、それだけですね。しかしそれも変だ。予想したことが起こる、なんてことは現実には無いから。あれば僕は今すぐ新興宗教をはじめる。もしくは投資家になる。

なぜ必要以上にこたえたのか、を辿った結果思い当たるのは「自分は現実にcommitしきれていない」という最近の疑問を、それらが間接的にでも刺激したことだ。日本語に直訳すると「現実と深く関わろうとしていない」になるかもしれない。責任をとろうとしない、になると気合が入っているというか、自分で自分をその他大勢の人と一緒にまとめてしまうような感じになるけど。そのときは気づかなかったが、多分自分に対する自信のようなもののレベルが少し下がっていて、それでささいなことに反応しやすくなっていたのだろう。

これまでの人生を通じてずうっとまとわりついてきた問題なので長い描写は避けるけど、最近になって再び現実とのかかわりかたを意識し始めたきっかけのようなもののひとつは他の人たちが書いているblogだ。うろうろとwebをさまよいながら日本語で書かれたblogを読んでいくうちに、だんだん居心地が悪くなってそのうちやめてしまう、ということをこれまでちょくちょく繰り返してきて、その都度それは書かれている内容に興味が無いからだ、と片付けてきた。

そういう感想を持ったblogには共通点のようなものがある。ひとつは書き手の仕事と生活に密接した内容であること、もうひとつは書き手がトピックに対してある程度決まった視点(ものの見方)を持っていることだ。僕はそれらを見て、業界用語が多すぎてよくわからないし、どんな意見が出てくるのか予想がつくのもあまり興味がわかない、だからあまり読む気が起きない、それでいいか、としておいた。これらの条件にずばり一致しても、楽しく読みつづけるblogもあるのであまり強く言い切れないけど。

しかし先日、よくよく考えてみれば居心地が悪くなる理由はもうひとつあった。うらやましかったからだ。
彼らが自分の専門分野について熱心に、楽しそうに語る様子を、そしてblogの内容に仕事や生活と関連した統一性のようなものがあるのを、うらやましいと思ったのだ。自分もこんな風に仕事や生活に関わっていきたい、と感じたのだ。今の仕事やつきあっている人たちそのものに問題などない。自分の関わり方に自分で納得がいっていない、だと思う。それを改めて自覚したので、居心地が悪かったのだろう。
そして視点がはっきりしていることに興味がわかない、と考えたのも違っていた。視点がはっきりしていることのほうに、僕は興味を持つ。その視点からどんな世界が膨らんでいくのか、わくわくしながら読めるから。多分、視点の掘り下げ方が僕の好みに合わなかっただけだ。

そして上記の「blog」を「人となり」に置き換えても、完全に成立する。自分が興味をもったことを生活の糧にして、前進している人たちとつきあっていくうちに、自分の状況について考えなおさないわけにはいかなくなっていった(ああ長い)のだろう。

ではこれからどうするのか、と考えた結果、最近は次のことを意識しながら毎日を送っている。
自分が関わっていくもの(顧客からのメールに回答する、友人と約束した手紙を書く、部屋を掃除する、なんでもよい)を人の影の形にイメージする。
イメージの中で自分がその影にかぶさっていくことで、これからそのことに関わっていくことを自分に再認識する。そのとき、必ず腰からかぶさる。真正面から、あるいは背後からかぶさると気持ち悪いので(気持ちいいかもしれないが)、横からかぶさる。腰を意識しないと、真剣に取り組む意識が作れないような気がしたからだ。頭から、手から、足先から入っていくとすぐに逃げ出すこと姿勢になってしまう。腰から入るとすっきりするのだ。
別に「必ずやり遂げる」と決意するわけではない。単に、逃げないできちんと向き合うだけだと思う。結果として「これはやらない」があってもいいし、ないと不自然だ。

なんか奇妙なイメージだけどこれをやると落ち着くのでこれからも続けるだろう。そのうち意識しなくてもすむようになる、にするつもりだ。以前はこれと似たパターンで「ネガティブな自分と一緒にいる」をやっていた。すごく嫌な気分になったとき、その気分をやはり人の形にして、とりあえず自分の横に立たせておく。飲み込まれるのでもなく飲み込むのでもなく、ただただいっしょにいる。2つの磁石を近づける作業に似ている。反発させて遠くに離れてしまうのでもなく、かといってぴたりと吸い付くのでもない、微妙な距離を保つ訓練だ。最初は努力が必要だったが、これを続けることによってある程度嫌な気分のときでもやりくりが可能になってきた。嫌な気分を消すのが目的ではなく、存在を認めてつきあうのが目的だ。20年間ほど「嫌な気分は消えるべきだ」と努力して結局だめだったので、あきらめてはじめたらこれがうまくいったというのが正解だけど。今回のはどうだろうか。