24日から3週間、南アフリカ一帯ををうろついてきます。
帰ってきたら怒涛のようにblog攻撃・・となるかどうかはまったくわからない。
最近、ますます「わからない」状態を楽しんできている気がする。ついでに、わかんないままほっておいておこうか、という傾向も強くなってきて、以前のように何かあればすぐに形にしよう、blogに書いてみよう、結論を探そう、という欲望が薄い。
「気がする」というフレーズがやたら出てくるのも自分の中で起こりつつある変化だ。こんなこと思いました、だけでも十分ではないか、と最近感情や気分を書き連ねたblogを読むようになって、ますます技術系blogから遠ざかっている。読んでいて何がなんだかさっぱりわからないしわかろうともしていないから当然だが。
他人が考えていること、思っていることが素のまま出ている文章は、読んでいて退屈することはあまりない。でも自分で書いてみると、「こんなこと考えました」だけだと後で読み返したときに恥ずかしくて記憶から消したくなるときがままある。「おもしろかった」といわれることのほうが比較的多いから(ネガティブな感想を言う人間とは意識的にも無意識的にもあまり関わらないようにしているからなのだろうけど)、そうかそれでいいか、とひとまず自分をほっと納得させてそのままにしてしまう。
自分が考えていること、思っていることを出してしまいたい、でもそのまま出すだけではすごくかっこ悪い気がする、だから
1.脚色する、悪く言えば嘘をつく
2.とりあえず面白くする努力をする
3.書ける範囲で、本当のことを書く(そうすれば残った部分を言いたい衝動も消えたりする)
そんなことをこれまで大なり小なりやってきた。思ったことをすらすらすらと書き連ねてきただけではない。
うーん、一時期、blogのネタを探して頭を痛め、結果的にいろいろな実験をやって少しずつ幅を広げてきたことを思い出した。デジタルカメラに撮った写真をアップデートするなんて、2年前だったら。。
そういう試行錯誤こそがこのblogを形作ってきたのだから、これからも試行錯誤を続ければいいではないか、の一言で全てけりがついてしまいそうだ。悩んだり苦しんだり眠いのを我慢したり根性を入れたりすることそのものに価値があるとはあまり思わないけれど、別にあっても悪いことでは全然無い、と考えてみた。
今回は当初、自分が考えていたblogの使い道:つらつらと考えを垂れ流して、整理がつくなり満足するなり燃え尽きるなりしてみよう、をやっている。完全に、一人で完結してしまう世界だ。あれほど読んでいた村上春樹の著作を5-6年前にばったり読まなくなったことを思い出した。その当時はなにかやばい、と思って村上龍に入れ込みはじめたのだが、春樹の世界が一人で完結しやすい、のが怖かったのだろう。気持ちがいいのだけどその中で腐っていくような、体がむずむずして痒くなるような感覚を味わったからだ。
で、それまでの勤め先を辞めて半年ほどなにもせずに(何も悟りらしきものは開かず)、東京で再就職して今に至って、なにやらようやく落ち着いてきたのかもしれない。気持ちではなく、体が生活の変化になれてきた感じがする。だから最近ぼーっとしているのだろうか。あるいは単に春だからなのだろうか。確かに秋になれば確実に少し鬱っぽくなる。
うーん、まとまりも結論も無い。これ、後で読み返したら苦笑するだけになるだろうなあ。