先日出会ったとある人がこのアーティストの素晴らしさを語りつづけた。僕はふむふむとうなずきながらも、一体なにがどうすごいのかまだよくわからなかった。しかし彼の熱意はあまりにも本物であり、かつその人は何事かに執着する傾向があるようには見えなかった。執着(あるいは依存)という言葉から遠く離れていそうな人間にそこまで語らせるのは何者だ、と興味が湧いて調べ始めた。というより、Andy Goldworthyというアーティストを通してその人のことをもっと知りたい、と感じたのが正解かもしれない。あるいはその人に興味があったからこそ、Andy Goldworthyに興味が出たのかもしれない。いずれにせよ、何か(モノやテクニックや誰か)に興味を持ったとき、それはそのきっかけとなった人物と切り離すことができない。ということは、人物に魅力がないかぎり、その人が勧めるものにも興味を持つことは(あまり)ない、ということだ。
何でこんなことを考えるのかというと、各種セミナーまたは勉強会の席で、やりたいことについて周りの理解が得られない、もしくは周りをいかにして動かすか、に悩んでいる人を時々見かけるからだ。彼、または彼女はだいたい真面目で、真剣で、かつ・・・魅力があまり感じられない。お前に言われたくはない、という彼らの声はまた後で聞いて(それはそうだ)、僕も彼らと積極的にお近づきになりたいという欲望がわかない。多分それは彼らが何かを「支配」することを目指そうとしているように感じるからだ。あるいは彼らの、自分が変わらずに他人を変えようとする欲望かもしれない(それらがうまくいっている人間は勉強会には来ないし、来たら僕は即効で逃げる準備をするだろう)。あるいは単純に、失敗したり悩んだりしている人と関わりたくない、という自然だけどかっこ悪い自意識だけなのかもしれない。それっぽいな。
魅力が感じられないことの副産物は、彼らの人となりだけでなく、その主張の内容にまで魅力を感じなくなってしまうことだ。逆に魅力を感じている人のいうことは、かなり真剣に聞いてしまう。後から考えるとつまらないことでも。だから内容と人となり、どちらを先に鍛える?もしくは改善するか、と言えば絶対に人となりだと、悩んでいる人を見るといつも思う(それは悩んでいるときの自分にも当てはまる)。彼らもそのことを自覚してみたら痛いだろうけどすっきりするだろうな、と思う。
「なんで自分の計画したことに周りがついてきてくれないんでしょう」
「それはあなたがぶさいくだからです」
というのは答えじゃないけど答えだ。計画の内容さえ直せばなんとかなる、と考えるよりずっとましだ。
もとい、Andy Goldworthyについて。とりあえずはここのページからも作品が見れます。
僕は芸術に対して感受性はゼロだと思っていた(いる)し、名画や彫刻や写真集を見ていてもたいてい30秒くらいで飽きる。特に登山をした時に頂上の山小屋で山の写真集を見かけたりするとうんざりしたりもする。そこにあるんだから自分の目で見るわ、と吐き捨てて立ち去る。Andy(呼び捨て)の作品も最初は面白いなあ、と見ているがやはり30秒で注意が薄れる。でも彼の作品は何日かたった後でもう一度見ると、また最初の時と同じように面白いなあ、と思える。今日までに1週間毎日、20秒ずつくらい見ているがまだ飽きない。とりたてて言うことのない芸術作品に見えるけれど、贔屓目抜きに何かが違う。
理由を考えてみた。多分、彼と彼の作品の一番の特徴は自然に対して対等な立場でいることだ。僕がこれまで目にしてきた芸術作品のうち多くは、人間を至上のものとしてとらえる(中世の壁画なんてみんなそうだ:神の形をかりつつも自己満足の世界)か、自然を至上のものとしてとらえる(風景画とか風景写真とか)か、自然を「弱いものとして守る」(動物の赤ちゃんの写真とか)かしていた。要するに、人間と他の自然との関係は対等ではない。どちらかが絶対的に上で、その関係は揺るがないもの、という感じを受けていた。
Andyの作品を見ていると、人間と自然とがコミュニケーションを図っている、というより一緒になって遊んでいる、という感じを受ける。それぞれお互いにないものを出しあう。人間は手や足を使い、自然は材料を出す。人間が自然を完全に作り変えるわけでもなく、かといって「保護」したり「手を出さないでおく」としたりするわけでもない。一緒に住んで、礼儀を逸しない範囲でお互いに楽しむ同志、といったらいいのだろうか。もう少し言えば、彼の作品を見ていると「自然」と「人間」のつなぎ目を見ているような気にもなる。自然が人間を飲み込んでいるのでも、人間が自然に同化しようと努力しているのでもなく、きっと人間と自然が握手をすればこんな形になるのだろうな、というようなものを彼は作っているのだ。
人間には人間なりの生活とか文化とかがあって、それに従って生きていけばそれでいい、でも他の存在とも、違いを認めた上で一緒に生活できるのではないか、という可能性を示唆してくれるような気がする。僕は例えば、人間の子供がジャングルやサバンナで動物に囲まれて暮らしている姿、という現象をポスターや雑誌で時々目にする。それに対して、正確にはそういうものをありがたがる風潮に対して、違和感を持っている。その違和感が強化されたようだ。どれだけ癒されようとも、自然を愛する心を刺激されようとも、やっぱり不自然なものは不自然だ。人間は他の大型野生動物に比べて格段に体力的にひ弱だ。だからそういう子供達は動物の群れに混じることなど許されないか、食い殺されるか、野垂れ死にするか、どちらかになるに決まっているしそれこそが自然だ。大自然で動物と文字通り一緒に生活する、というのは結局人間様の存在を上に掲げた傲慢な行為だ、と傲慢なことを考えた。
ついでに写真集を買って、またじくじくと楽しめそうだ。
‘I see individual stones as being witnesses to the places where they sit; They are a focus for that place; they are embedded with the memory of that place. They are layered with its history. So when I covered a rock with leaves, it was to touch the autumns that the rock has witnessed. And when I covered the rock with red or yellow, its not like painting a surface onto the rock; it’s to touch the energy within that rock.’
石ころはそれがころがっている場所の証人です。石ころを通して、その場所についての記憶がいっぱい詰まって見えます。歴史が積み重なって、層を成しているのです。だから僕が石を葉っぱで覆うとき、石がこれまで目にしてきた秋の記憶に触れることになるのです。そうやって石が赤や黄色で覆われるとき、僕は石に色をつけているわけではありません。石の中に詰まったエネルギーに触れているのです。
Movement, change, light, growth and decay are the lifeblood of nature, the energies that I try to tap through my work. I need the shock of touch, the resistance of place, materials and weather, the earth as my source. Nature is in a state of change and that change is the key to understanding. I want my art to be sensitive and alert to changes in material, season and weather. Each work grows, stays, decays. Process and decay are implicit. Transience in my work reflects what I find in nature.
動き、変化、光、成長、そして腐敗は自然の中に流れる血液であり、エネルギーです。僕が作品を通じて表現したいものはそういうものです。僕は触ることで刺激を得ます。場所や材質や気候から反発を受けます。地球そのものから必要なものを得ます。自然は変化のさなかにあり、それを理解することが大切です。僕は自分の作品を通じて、材質や四季や気候の変化に敏感でありたいのです。作品たちは成長し、とどまり、そして腐っていきます。段階を踏んで変化していくことと腐敗してなくなっていくことはいつだって存在するのです。僕の作品が同じ状態にとどまり続けることがないのは、僕が自然の中に感じるものを写し取っている結果です。