結論よりも過程

何気なくほぼ日刊イトイ新聞を読んでいたら、糸井氏とイチローの会話が載っていた。読みながら、なんとコーチングな会話であることよ、と会話の内容よりも聞き手である糸井氏の進行ぶりに関心、いや感動を覚えた。

個々の部分に着目すれば、テクニックを解説することはできるかもしれない。そんなこと本当はどうでもいいのだけど。理由は後述します。
最初にインタビューに入る前に場を和ませること;イチローのコメントの中でもキーワードになりそうな部分を、さっとすくいあげてもう一度投げかけて見せること(牛が草を咀嚼して、口に戻して食べやすくするようなものだろうか);あまりにもあたりまえすぎて普通は聞かないであろう質問をストレートに、かつ気負わないで出すこと;「こういう質問・進行をするべき」という匂いがしないこと;発言に余分なものも足りないものもないこと。

ここで行われている会話がコーチング的だ、というのは正しくない。逆だ。なんというか、もし最上のコーチングが行われたら、きっとこんな会話が繰り広げられるのでは、と想像していたことがコーチングとは(多分)縁もゆかりもない人によって行われている、ということなんだろう。でそれを見て「(コーチングを勉強してみた)自分の選択は間違っていなかった」と安堵感を覚えている。自分が想像する理想の姿がコーチングの本来の概念と一致しているかどうかはかなり怪しいけどそれは脇へどけて(誰一人本来間違っている人はいないのだから・・)、こんな感じを味わいたかったのだなあ、と今更ながら自分の「気持ちいい」状態を再確認した。

コーチングというものを特別な手品や最後の切り札みたいに取り扱うのはやめて、もっと乱暴に、気軽につきあっていけばいいのだ。テクニックや名前がどうあれ、最終的には気持ち良いコミュニケーション(と自分が勝手に想像する)は皆どこか同じ場所へたどりつくのだろう。皆同じ人間だから、という具合に最後は面白くもなんともない結論になりそうだ。結論ではなく、過程に価値があるとはいろいろなところで言われる。何故なのか、その理由が少しわかったような気がする。要するに結論が単純すぎて(シンプルでなければ結論ではないのだろうけど)、過程を経験していなければ本当に味わうことなどできないからだ。

それは巷にあふれる多くのビジネス書について僕がうさんくさく感じていることにもつながる。成功するための14か条の法則やら、金をためる人間はここが違う、だのありとあらゆる「結論」が書かれている、一刀両断型の本だ。その結論がどういうことなのか、こと細かく解説が加えられて、先の例で言えば「ここで糸井氏はこう流れをこう切り替えている」てなことを知ることだけはできる。でもどんな経験を経てその状態に至ったのか、が理解できないと結論を覚えることに意味はない。全く無いわけではないけど、効果は薄い。すごいことを知ったからこれで大丈夫、てな気分になってしまったらもはやそれは薬ではなく、毒だ(今まで100回くらいやってきて、いいかげん目が覚めた。というか、飽きた。本当にうさんくさく感じているには昔の自分に対してかも)。だから本当に読んで価値があると感じた本は振り返ってみれば、起承転結を丁寧に見せてくれるようなものだ。一流の経営者の伝記(ウンチクだけじゃなく)(ヤマト運輸の創業者の本とか)。物語の形式ではないけど、とにかく細かく事例をあげていくもの(片岡義男の日本語に関する本など)。どんなことから何が始まり、どんな時点でどんな事件が起こり、どんな過程を経てどんな結論に至るのか、を流れで感じられるものだ。

あれ、だとしたらどうして一刀両断の塊である村上龍の著作をせっせと読んでいるんだろう。巷の本とは何かが違うから読んでいるのだが。またしばらく唸っておきます。