Co-active coaching balance course day1

第三回目
今回のコースはこれまででもっともリラックスして参加している。見慣れた風景に見慣れた人たち(基礎から応用まで数回のセッションがあり、それを連続して受講する人々が多いためあちこちで「や、またよろしくお願いします」と言い合っている)、何が始まるか半分くらいは理解しつつも今回はどんなのだろう、と新たな経験を楽しみにする余裕すらある。
こうなってくると以前とは違う種類の緊張が出てくる。みんなの前で進歩のない状態をさらしたくない、というとても困ったたぐいの緊張だ。講師(リーダーと呼ぶ)の方に対して意見を述べることも、自分の気づいたことをまとめることも簡単にできる。だが、皆の前でコーチン具(味噌煮込みには名古屋コーチン+具)の実演を行うとなるとおじげづいてしまう。自分がどのくらい損な選択をしているか、それを理解するのはちょっと後だろう(そしてそのときにすごく落ち込むだろう)。

24名の参加者がいて、皆奥ゆかしい日本人なのでリーダーの方々も「やりたい人はいますか、質問はありませんか」などという呼びかけを通算30分に一回、あるいはもっと、する。これが日本ではなくて他の国だとどうなるのだろう、と想像した。たとえば中国であればリーダーが「だれか実演してみない?質問ない?」などと参加者の発言を「促す」などということは考えられないだろう。参加者たちは質問を繰り出すどころか、自分の考えを述べ20分にわたって「演説」し始め(中国中央テレビを見た限りではそうだ)、はてまたはリーダーに対して「こうやって会を進行するべきだ」と要求しはじめるだろう(僕が通っている中国語教室の先生によれば、講師のヘルプ(本場の人)を雇うことに抵抗を感じる理由の一つに入ってくる人間が教室の運営の仕方について口出しを始めるのが怖い、ということをあげていた)。
リーダーの役割は参加者を促すことではなく、抑制することになるはずだ。コーチン具の概念すら変わってしまうだろう。いかに自分の人生を実現させていくか、よりもいかに他者との協調関係を築くか、に。社会に足りないものを提供するだろうから。

バランスコーチン具について。ここで言う「バランス」とは、バランスがとれている「状態」ではなくてバランスをとる「行為」を指しているのだそうだ。リーダーの言葉を借りれば波に乗るサーファーのように、あるいはひょっとしたらやじろべえのように、あっちへこっちへふらふらしながらもバランスを保とうとするその行動を指す。このコース終了後にはバランスがとれた人間に一歩近づきます、であればうさんくさくあれど美しいのだが、そうはいかない。どんな状態であればバランスがとれているかはその人が決めることだから教えない、でも手足の出し方や物の見方の練習はできますよ、といういつもながらの「突き放しているのだけど温かい」、居心地の良さと悪さが同居したセッションだ。CTIおよびリーダーたちは信じられないほど親身に、真剣になってくれても、決して参加者を彼らに「依存」させることはしない、という目に見えない厳しい一線がいつもどこかに浮かんでいる。

今まで受講してきて、この依存を許さない、許そうとしない姿勢こそが、僕がプロのコーチになるつもりもないのにCTIのコーチン具セッションに参加する一番大きな理由だろうか、はてまたCTIが他のコーチン具機関と一線を画して他の人からも人気を得ている理由なのだろうか、と感じている。僕はリーダーおよび参加者達の人間的な魅力が一番大きいと思っていたけど、それでも場の空気に甘えの匂いがあれば初回で参加をやめているはずだ。依存は日本中に、大から小まで、組織から一個人の中まで、あふれ返っている。オウム真理教と企業は依存を武器にするという点で一致する。日本人の団体行動が海外で(国内でも)尊敬されないのは団体でいるからではない。仲間としてではなく、群れとして行動しているように見えるからだ。
言ってみればこんなに単純なことが貴重な世の中って、どうなっているのだろう。

今回はバランスをとることを目的とするよりも、それ以前に視野を広く持つことを意識することを訓練する機会だ。でもそう言ってしまうとなんか焦点がぼやけて「明るくがんばります」みたいな役に立たないスローガンになってしまう。バランス、という力強い言葉をもってくることは有効なのだろう。