木のいのち木のこころ 2/2

このについての感想の後半を。感想にするべく努力します。

西岡氏の話を物語る口調には独特のものがあって、思慮に富んだ発言が無くてもついつい読んでしまう。何故か、と考えると答えは簡単で、彼の話はものすごくわかりやすいのだ。内容が単純なのではなく、深い洞察をわかりやすく語るのだ。大工道具や建物の構造など、さすがによくわからない単語は出てくることはあっても、主張の論点がわからなくなる事態はない。年寄り+専門職+無学(失礼)という三重苦?を背負っているのに何故こうまでわかりやすいのか。多分、自分のやっていることを体験から徹底的に知り尽くしているからだ。宮大工という職業を50年間続けることで、しかもそれに情熱を傾けることで、誰に教えられなくても彼は言葉を発見してきたのだと思う。自分で理解し尽くしているから、赤の他人も理解できる言葉だ。

彼の体の中には宮大工という芯がきれいに、力強く通っていて、そのおかげで何について語っても(教育やら環境やら、大工とはあまり関係無さそうなこと)、思慮深くて本質を突き、そして宮大工の世界にまたつながっていく。小学校の時にやった棒磁石の実験を思い出す。磁石の周りに砂鉄を巻いておくと、それが磁石の周りに渦を巻いて、棒磁石を中心にして円の流れができる。あるいは別の時間にビーカーの中で見た対流の実験にも似ている。流れは必ず元のところへ戻り、また外へ出て行く。彼の思想の世界も、そんな形を作っているような感じがした。磁石と違って、廻りまわっている思想は回る度に外の世界に触れて鍛えられ、大きく力強くなっていく。真中に通っている芯もまた、日々の仕事を通じて強くなる。

興味深いのは、彼が子育てと結婚についてどちらも半ば失敗していることを認めている点だ。父親として子供たちにあまり構ってやれなかったこと(おかげで彼の子供で後を継いだものはいない)、夫として妻に構ってやれなかったことを素直に認めている。また、弟子に対してもあまり寛容でなかった点も認めている。怒鳴り散らしていたようだ。彼自身は弟子を使えないからと首にしたことは一度も無いと書いているがそれは単に、やめさせる前に皆自発的にやめていったからだろうと勘繰ってしまった。家族についても同じ事で、彼が彼のやり方で宮大工としての人生を送れたのは、よく言えば周りの人間の協力があってこそ、悪く言えば周りの人間に直接、間接に頼った結果だ。

子供や妻の相手に時間を割いて、割の合わない宮大工をやめて民家を建てることでお金を稼いで、癇癪をおこさないようにしていれば彼の周りにいる人間は気が楽になっただろうけど、彼のもつ知恵が後世に伝わることは無かったかもしれない。彼の生きた時代には、家族が割を食うことは日常茶飯事だったはずだがそれは現代では許されない。家庭と家計は私にまかせて、あんたは仕事に打ち込んでくださいなと無言で承認してくれるようなお嫁さんと行儀良い子供、なんて組み合わせが今ありえるだろうか。家族は俺のやることに黙ってついてきている、と仕事おじさん達がのたまうのを聞いているとき、子供に金属バットで殴り殺されない、あるいは小学校低学年で引きこもらない、あるいは奥さんにいずれ離婚届を突きつけられない自信はありますか、と心の中でつぶやいてしまう。

現代の人たちが昔ほどの職人芸を生み出せなくなっているのは、選択肢(誘惑とも言われる)の他にやること、気にかけることが多すぎるからだ。職人芸を編み出すほどの努力は絶対どこかでバランスを崩している。しかしほぼどこへいってもバランスを取ることを求められる(もっと言えばなんでもできることを求められる)。この状況で西岡氏が体得してきたような知恵を得るためには、どんな工夫が有効なのだろうか、それが知りたい。

木のいのち木のこころ、は3巻に分かれていて、彼の弟子の視点弟子の弟子の視点からとらえたバージョンもある。西岡氏の語る内容に感心するだけでなく(誰だって自分の中だけだったら、はたから見るよりバランスがとれた人生を送り、破綻の無い思想を持っているだろう)、周囲の人間の視点をあわせて読むことでどんな感想を得られるか、興味深くなったので注文した。2つ足してもAmazonでは配送料金が無料にならないので(1500円以下)、前から気になっていたネットバブル時代のシリコンバレーについてのドキュメンタリーも買った。実に簡単だ。Amazonが1-clickを特許にしてしまい、他の業者が使えなくしてしまったのには意味があったのだ。これがもっと世の中に広まれば買い物による自己破産が今以上にブームになる、その恐ろしい事態を防ぐためだ。ありがとうAmazon。