電子辞書の群れ。外国語を使って会話をするためには、発音がある程度正しくないと話にならない。なんぼ文法上正確になっていても If I were you, I would master the pronouciation (was ではなくて wereだよ)、発音が悪いせいで日本人全般に対して外国語、特に英語の取得能力が欠如しているという評判に拍車がかかっている。ので教材に絶対欠かせないのは言葉の意味が出ると同時に正しい発音を教えてくれる機能だ。発音記号の表示ではなくて、音が出る機能だ。
店頭に飾ってある辞書の種類が35、スピーカーらしきものがついていたのがそのうち6。ついていないのが残り。どうひいきめに見ても、逆であるべきだ。発音がわからないでどうやって言語を習得できるのだろう?日本語だって発音はある。柿と牡蠣、えらいですねえとえらいことしやがったな、お世話になりましたと大きなお世話だ、微妙に発音を使い分けているはずだ。違うか。違いますね。
そこで僕が愛用している好易通。中国語と英語の2ヶ国語で(Oxfordの由緒正しい辞書が入っている)発音も両方出て、上海では高くても日本円で2万円くらいで買える。日本で買えるルートがまだわからないけど、英語と中国語を両方学ぶならこれっす。無敵科学技術がトレードマークの台湾の会社が作っています。その名の通り頼もしいです。
追記:電子辞書なんて流行っている言語の数だけ種類があれば十分だろう、と思うけど35種類とは。メーカーはよほど研究開発費を有効活用できないのだろうか。奇抜で面白い企画を却下され、「売れ筋」の電子辞書を設計する羽目になった開発スタッフの怨念がこもっていそうだ。
六本木ヒルズの森美術館にて。コードレス電話の親玉みたいなこの機械を展示品に向けると、音声で作品の解説をしてくれる。作者が何を考えていたか、作品の時代背景はどんなだったか、(これが肝心)この作品は何をいいたいのか。中学生じゃあるまいし、そんな解説は不要どころか本来は邪魔なはずなのだが、芸術作品を見てもあまりに何も感じないので、いったい自分と「芸術を感じる能力のある人々」との間に何が横たわっているのかと勉強のつもりで聞いた。すると眠くなったのでソファで寝た。Happinessをテーマにした展示会であり、作品を展示する方法とコンセプトそのものが一つの芸術作品として成立していたはずだが、だとするとこのような形で自分も備品のソファと一体化して芸術に寄与しているのだろうか、と満足しながら寝た。
機械は大きくて重たいのが帰って使い勝手を良くしていた。首からぶらぶら下げたり、服とこすれたり、強く握っても全然気にならないくらい頑丈なところがまた良い。大きくすれば中の電子回路も不必要に高価で繊細なものを使わなくてもいいし。
日本にはきれいで近代的な建物が本当にそこらじゅうにあるのに(五反田にだってデザインビルがある)どうして都心の一部以外は近代的で人工的なにおいをあまり感じないのだろう、と少し考えたことがあり、その答えがあった。建物そのものはきれいにつくっても、それを扱う側がデザインというものに慣れていないとあっという間にこのようなものが付着してくる。同様にオブジェのまわりには子供が登らないように柵が付けられ、ビルそのもののデザインは秀逸でもその上にどでかい広告が据え付けられる。余分なものはいらない、という余裕が生まれる日がいつかは来るのだろうか(雑誌ではさかんに紹介されるヨーロッパの「本物」が本当に根付くことがありうるだろうか)。世界第二位の金持ちになってもこれであり、この先の発展が見込めないのだから、このずれずれこそが日本のアイデンティティとして定着しつづけていつかは「高度に洗練された本物のミスマッチ」として愛される(少なくとも外国の人からは)ことになるのだろうな、と考えた。少なくともアニメや漫画の分野ではそうなっていると思う。
丸の内、東京駅の横にある日本的な喫茶店。黒服のサラリーマンがいっぱい詰まって、おいしくない(失礼)コーヒーを飲んで味気の無い(本当に失礼、でも本当)定食を食べて煙草を吸いながら「商談」をする。みんな同僚もしくは取引相手であり、会話の内容は1、プロジェクト(と彼らは言う)の進行状況 2、プロジェクトを左右する人物の細かい動向(含む愚痴) 3、リストラもしくは異動の噂 4、共通の趣味 のどれかの話をしている。話の内容が面白くてつい聞き耳を立てたことは、今まで一度も無い。みんな上の4つのパターンを延々と繰り返す。彼らにとっては日常だ。
それでいて誰一人として心から楽しそうに見えない。ただ、時々すごく安心した顔つきになっている人はいる。
彼らの様子を見て一つだけ確信したことがある。日々、強化されつつもある。自分は絶対、この集団の一員になりたくない、という決意だ。一人でそんな店に入って美味しくないコーヒーを飲みながら本を読み、時折まわりの観察をしているのも心から楽しいとは言えないが大の男同士で群れるよりはましだ。