2周年記念の式典に参加しました。
Thomas Leonard氏(著名なコーチであったらしい)の思想と言葉をかいつまんで学びながら、パートナーを組んでお互いの内面を掘り下げてみる練習も行い、いつもながら自分ひとりだけでは考えていてもらちがあかないことをはっきりさせるのに、丁度良い機会だ。練習のテーマは自分の欠点を長所に置き換えてみる(置き換えてもらう)というもので、こうやって書いてみるとうさんくささの臭気に耐えられなくなりそうだが実際は視点を変えてみる、という訓練だ。欠点を欠点としてとらえてばかりいると何も進まないから、それを力を失う(元気を無くす)のではなく、出させる方向に向けてみてはどうか、というものだと理解した。
コーチングを学ぶ人が皆自信を無くしている、というわけでは全然無いのだが(どちらかというと前向きで開放的な人の方が多い。コーチングを勉強して一番驚いたことかもしれない)、今まで見てきた中で共通していることは皆人間関係のことを真剣に捉えている、という点だ。自分の周りだけでも、仕事関係でも、はてまたは日本を覆う殺伐とした雰囲気についても。だからこういう設問が出てくると皆(自分も含め)けっこう深い悩みが自然に表に出てくる。この様子をビデオカメラで写して見ると、話の内容(シリアス)とはたから見た雰囲気(和やか)のミスマッチが結構浮き出るのではないか?こういう場だからこそ、気軽に考えていることを話せる、というのがものすごく貴重なことなのだな、といつも感じる。
僕はセッションのテーマではなく、自分の内面を素直に出せて、しかも傷のなめあいに発展しない「場」があることに引き寄せられて勉強をしている。こういう場が現在はあまりにも見えなくなっているからこそ(どこかにたくさんあったり、意外に簡単に作れたりするのかもしれないけど、みんなそんな余裕は無い、ということだと思う)コーチングに限らずいろいろなコミュニケーションの上達方法を学ぶ人が増えるようだ。
悩みを打ち明けたり、失敗した話をしたりすると、多くの場合すぐに現実的な処方箋(アドバイス)となって、反応が返ってくる。それはこうすればいい、こう考えるのがよくない、少し休んだら、といったものだ。友達や仕事仲間とそういう話をしていると、そういったアドバイスは気休めになるけど根本的な解決にはいたらない。皆それをわかっていて、なんで毎回同じように話をするのかというと、結局話を聞いてもらえる人がいるという安心感、自分とその周りの世界を肯定できる感覚を味わえるが最も助かるからだ。でも結構高い確率で、昔ながらの知り合いからは現実を打破できるようなアイデアを得られない。同じような世界観を持っている人間とつるみやすいから、物の見方も同じようなものになる。そもそもそんな新鮮なアイデアを安心できる顔なじみから得よう、という考えが相手に失礼なのだけど。
しかし、知り合いの世界から離れてみて、自分の考えを共有できる世界がどれほどあるのだろうか、と考えてみると心もとない。一部の年寄りが言うように地域社会を復活させればいい、というものでもないだろうし。昔の近所づきあいでは問題を皆で話しあっているときよりも、相互監視を行っている時に最も生き生きとしていた記憶がある。期待されている行動をとってさえいれば非常に居心地が良いので、あまり出たくならない、という意味で旧東ドイツのKGBなんか目じゃないくらいの高度に洗練された組織だった。それを復活させるのは確かにしんどいだろうなあ。なので人工的にそんな場を作ろうか、と最近いろいろな場が出来つつある。でも、本当はこんな場をあえて作らなくても良いのが一番なのだ(文字通りに言えば、コーチという職業が無くなってしまうのが理想)、と田子さんがおっしゃっていたことに強く共感していた。
一つ再認識したこと。話題がビジネス・コーチング(部下や上司をどう管理しようか、という話題から、職場での対話を活性化する方法など、お仕事でコーチングを生かすこと全般)になるとものすごく場が盛り上がるのだ。どうしてすぐにお仕事の世界に結び付けたがるのか、仕事という世界を離れて問題(と認識しているもの)を捉えてみればもっと可能性とか視野が広がるだろうし、何よりも楽しいだろうに、と思いつつも、みんなよほど仕事の面で考えることが多いのだな、といつも興味が尽きない。僕はビジネス・コーチングが嫌いだけど(従来のサラリーマン管理作法を現代風にアレンジしただけ、とどうしても決め付けてしまう)、そういうものが必要とされていることは理解できる。しかしいつも少し違和感を感じるのは、ビジネスコーチングについて力説している人に、仕事をもっと楽しくしたい、と明言する人が少ないからだ。仕事が好きだ、でも、やめられないねー、でもなんでもいいけど、自分の欲求に従って、それをもっと良くしたいからこう思う、と誰かがいうときには、たとえその内容がわからなくても好感を持ってしまうし、引き寄せられて、いったいそんなに良くしたいものとは何だろう、と興味もわく。何かが広がりそうな予感がするからだ。
でもどちらかというと、上記の話は「義務」とか「やらないと生き残れない」とか「これからの社会では必須」という文脈で語られることが多い(ように思う)ので、それが窮屈に感じてしまうからビジネスコーチングという話題も、セミナーも敬遠してしまうのだろう。仕事の場でコーチングを生かそうと努力している人を見ると、みな真剣で、向上心も旺盛でしかも良い人々なのだけど「大変そうだなあ」という感想が先に来てしまう。僕もやってみたい、と感じたことがない。いったどれほどコミュニケーションが不足したら、こんなにコミュニケーションについて取り組む状況が生まれるのだろう?ビジネスコーチングよりも、多くの人々がそれについて真剣に考えている、その現象の方が興味深い。
うわあネガティブだ。だったら来なくていいよ、と言われないようにこれからもぼちぼち勉強を続けます。