写真を撮る

恵比寿ガーデン内にある東京都写真美術館で写真を眺める。
東京へ来て3年近くになるが、未だ美術館と名のついたものに行った事が無かった。たまたまコミュニケーションに画像(写真)を使うことの効果について考えている最中であり(日本語に翻訳します。いつもの写真+コメントエントリーをもう少しおもしろく、わかりやすくしたいなー)、前回エントリーで書いたプレゼンテーション資料と、今回の写真展で刺激をもらったのはタイミングがとてもよい。

2種類の展示があった。セバスチャン・サルガド(Sebastiao Salgado)という世界的な写真家の写真群と、アマチュアカメラマンの写真コンテスト受賞作品群だ。この2つをあわせて見ることがかえってよかった。

サルガドの作品群は大きく2つにわけられる。1980年くらいまでに撮られた、普通の人々の生活や仕事を率直に撮ったシリーズと、それ以降の「悲惨な出来事の告発」シリーズだ。前者では、写真が全てを語り、写真家の意志はそこに存在していない。ほとんどの場合、貧しい人々がモデルになっている。彼らが農作業を行い、工場で働き、食事をとる、ただそれだけの様子が収められている。カメラ目線もないし、にっこり笑っているわけでもない。彼らが幸せなのか、不幸なのかもわからない。彼らは淡々とやるべきことをやり、家族を養い、人生を送る。写真家(サルガド)は彼らの生活の中に存在しない。僕らがもしタイムマシンに乗って20年前のメキシコに行き、そこで人々の暮らしをクローズアップで眺めるとしたら、そこでレンズの役割を果たしているのがサルガドだ。単なるレンズなのだが、自動的に動いて視点を確保してくれる。そこに映る人たちの姿をゆがめることなく、本質を覗かせてくる。そして見終わった後、彼らに対して敬意と、連帯と、愛情を感じずにはいられない。上のリンクから見れる写真群がそれです。

後者の「告発」編になると、サルガドは単なるレンズの役割を放棄する。彼はコソボ、湾岸戦争、アフリカの難民キャンプ、など「危機的な状況」を選び、かつ被写体と視点に彼自身の意志が入り込み、見ている僕らは現実というより、物語を見ている気分にさせられる。石油が爆発し、人々は水と安全を求めてさまよい、瓦礫の中でうつろな目をして生活する。それらは確かに虚構ではない。でも何かが意図的に無視されて、意図的に選択されている。サルガドは正義感と善意に基づいて写真を撮っている、と考えているのだろう。でもそれらは傲慢だ。前者のシリーズには、普通の人々の尊厳、プライドがにじみ出ていた。サルガドは人間そのものを撮っていたし、サルガド自身の目線は彼らと同じだったはずだ。だけど後者の写真での人々は人格を認めてもらっていない。彼らはサルガドが信じる「一人一人よりも大きくて大切な何か(平和とか、戦争反対とか)」のために、人生の一部分だけを切り取られて拡大される。サルガドは彼らが搾取されて、尊厳を無視されていることを告発したいのだろうが、搾取や尊厳の踏みにじりを行っているのは彼自身でもあるのだ。

次の写真コンテスト展覧会に行くと、後者の傾向がより加速されている。正確には、撮った本人ではなくて入賞作品を選んだ選者の意志が入りまくっているのだろう(Fujikoさん説)。写真そのものは見てて飽きなかった。でもタイトルがひどい。東南アジアのゴミ捨て場で生活する子供達の笑顔を写した作品に「僕は、生きている」 とか、甲子園の応援風景を撮って「熱闘」とか。タイトルに事実ではなくて意味を付加した時点で、写真が50%くらい安っぽく見えてしまう。いっそタイトルなど全部なくしてしまえばいい、とまで思った。
一番最初の作品は、またもや写真家の傲慢な態度も前面に出ている気がして嫌になったのだろうけど。そんなに物語がほしけりゃ、写真など撮らずにしこしこ小説でも書いたらどうなのだろう?写真の力を借りて物語を伝えようとする姿勢には、自分が対象よりも優れているという優越感、物語が作れないからタイトルや対象そのものの力(子供の顔とか)に依存するという卑屈さの両方が見える。
写真の選考委員が撮った作品を、一緒に横に並べればいい。私は、この作品を推薦しましたと書いて。きっと応募作品のほうが魅力的に見えると思う。

普段雑誌や広告で見かける写真は、全て写真を撮る側の意志を前面に出している。それはそういう目的で撮っているからなのだけれど。今回美術館を巡ることで、写真家が自分のために撮る写真と、商業目的の写真との違いが見えた気がする。写真が語るか、写真家が語るか、の違いだ。そしてたとえ写真家が撮っても、前者は以外と少ないのだな、とも感じた。
で、自分が撮る写真は、もちろん写真家が語っているのです。。。一度くらい写真に語らせてみたい。。。