この映画を見て、まだ覚えている中では一番小さいころの出来事を思い出した。
保育園のころだったので、友達と砂場で遊んでいて、あんまりにも楽しいので友達をもっと楽しくしてあげよう、と思い立って、手にもてる限りの砂をつかんで相手の頭から振りかけた。
相手は大声で泣き出して先生の助けを呼び、僕は先生と母親の両方からおしおきをされて、その友達とはそのあと一緒に遊んだ記憶が無い。そしてそれ以来、他人に対して反射的に良いことをしてあげよう、という気持ちを持ったことはあまりない。
昔のことなのでそれは傷から良い思い出に替わりつつあるのだが、この映画を見ながらそのことを思い出し、癒されたわけではない。「俺はろくな目にあわなかった」という思い込みのような記憶が少し出てきた以外は、特に心が動くことはなかった。変な空想にふけってばかりいた、という点ではこの主人公と共通するものが少しありそうだけど、それ以外は何一つ自分が経験した世界とは違う。何も共感できない。なぜ変な人間を扱った映画がこうまでするすると通り抜けて何も残らないのか、多分それは主人公が「変」であることを隠そうとも、恥じることもしていないからだ。彼女は「素」で生きている。それは「変」ではない。十分に「普通」だ。そうか、この映画は普通の人間が普通に生活する映画なのだ。
自分の話で恐縮だけど、他人と違っている部分を貴重な財産と認識できるようになったのは30歳近くになってから(ここ2年くらい)で、それまでは常に変わっている部分を隠そうとしたし、「普通」に見せかけようとした(一度も成功したこと無いはずだ)。で、その「普通に向けて矯正しようとする努力」こそが、「変だ」と他人からは見なされる原因になって、いらぬトラブルが起こる。下手な関西弁がすぐにばれるように、上っ面であわせていることは本当によく他人からは見えるらしい。この映画にその要素があれば興味がわいただろうし、違った映画になってあまり話題になることはなかったかもしれない。
暗い映画でないし、後味も悪くないし、飽きることも無いし、絶賛している人は多いし、だけど僕にとってこの映画は「毒」にも「薬」にもならない(「趣味」にはなるかもしれない)。感情移入できないので、特に考えさせられることがなく(毒にならない)し気持ちが楽になるわけでもない(薬にならない)。同じ監督の作品を見るなら、まだ「エイリアン4」を見たい。映画の終盤、人体実験に利用された女性から殺してくれ、と主人公が頼まれる瞬間が好きだ。
でもこの映画に10年前出会っていたら、ものすごく感動しただろうな。感動というより、現実逃避の「館」みたいになって、何度も何度も見返して自分を慰めていたのでは。世界には自分と同じようにずれているけど純真で(自分も含め、ずれている人間のほうが大抵は屈折している)、思いやりと愛情があって(そういう言葉が存在していることは知っている)、変なことをしても肝心な部分はきちんとルールに沿うことができて(化粧ができる、とか服装が整っている、とか背筋を伸ばして歩ける、とか独り言も出るし緩衝材ぷちぷちもするし貧乏ゆすりもするけどそれらを同時にやることはない、とか)、しかも美人な!!!!(昔から、今でも、やること全てがどこがずれている人に会ってきたそのうち、90%くらいが「不細工」の部類に入る)人間がどこかにいて、そういう人は仲良くなれて二人だけの幸せな世界ができる・・・と。Amelieが不細工で、彼氏も不細工だったらこの映画はどう成立していたのだろうか?Amelieを演じた役者は素晴らしすぎているのだけど、当初の予定通りEmily Watsonに演じてほしかった。年齢も23から33にパワーアップして、相手の男のグレードも2段階くらい落として、作ったら多分それは見たくないんだけど。