友人からプレゼントされたロベルト・バッジオの自伝II、夢の続きを読んだ。彼と友人(自伝の出版社社長)とのインタビューをベースに構成されている。
前からバッジオが好きだった。表向きの理由ははプレーが華麗だから、だった。(これは本当にそうだと思う。少し前までプロテニスの世界にステファン・エドバーグというルックスもプレーも「北欧の王子様」という形容がぴったりな選手がいて、しかも世界チャンピオンだった。バッジオはそのサッカー版だ。)ということだったけど、本当は逆境を乗り越えてきた彼の熱血ど根性の「物語」に惹かれてきたのだ。
真実はともかく、この筋書きのストーリーに惹かれている。彼はアメリカ・ワールドカップでの決勝戦でPKを外し、ユベントスでのスターの座をデル・ピエロに奪われ、移籍したACミランで起用されず、30歳にもなっていないのにイタリア代表を外される。ずうっとスーパースターだったわけではないのだ。一念発起して中堅クラブのボローニャへ移籍し、点をとりまくってフランスワールドカップの代表に召集される。
一度は前途を失ったはずのスポーツ選手が、最後まで希望を捨てずに努力して、復活してみせるというストーリーにとても弱いようだ。先ほどのテニスで言えばゴラン・イワニセビッチのウィンブルドンでの勝利が最近は特に印象に残っている。彼は全盛期でさえ「無冠の帝王」と呼ばれていた。ランキングはいつでもNo.2止まりだし、4大タイトルとも無縁だった。多分精神的に少し弱かったのだろう、大きな舞台では必ず自滅して負けるのだ。彼の最初のウィンブルドン決勝の相手は、アンドレ・アガシだった(もちろん当時はアガシを応援した。イワニセビッチは早いサーブに頼るだけで卑怯だから「悪役」だ、とかなり曇った目で見ていた)。イワニセは第5セットで、先にサーブするというとんでもなく恵まれた条件でも、ダブルフォルトを連発して自滅した。
本を一通り読んで類推するバッジオの人となりを少し類推すると:
「しつこい」(良い意味で)
結局彼は日韓のワールドカップによばれなかったのだが、本の全編にわたって、そのことについての思いが吐露される。100ページにわたってしつこく掘り返す記者も記者だが、答えるバッジオもとどまることを知らない。彼に限らずイタリア人はしつこい(かつすけべ)、とまた一つ固定観念が形成された。
ここ数年、ワールドカップがなんとなくつまらなくなってきた、という人をちらほら聞く。その傾向が止まることもないだろうとも言う。しかも気まぐれでサッカーを見る人でなく、ヨーロッパや南米のファンや評論家や選手が言うことが多い。理由として、戦術が高度になりすぎて選手の自由度が少ないから「奇跡」を見ることが無くなってきたということと、「国家」に対する思い入れがそもそも減ってきたということを言われる。貧乏で世間を知らないうちは、「世界で活躍する」ことに特別なインセンティブが働くから。
バッジオが本を一冊通して繰り返し、ワールドカップ出場がどれほど彼にとって重要なイベントなのか(所属クラブの選択も、トレーニング方式も、全てそれが基準となっている)を語るのを見ていると、彼のようにワールドカップにこだわる選手がかつてはたくさんいたのだろうということと、彼がそういう世代の最後の人間なのだろうか、という少し寂しい気になってくる。今、絶頂期を迎えている選手のインタビューを読むと、彼らの興味はバロン・ドール(欧州最優秀選手)のような個人タイトルとチャンピオンズ・リーグ優勝のようなクラブ間の競争に重きが置かれている。あまりお金持ちじゃない国の選手はまだ少し違うようだけど。先日バロン・ドールを獲得したチェコのネドベドはインタビューの中で、この受賞がチェコという「国」にとってとても重要なことであることを語っていた。(リンク先はチェコのサイトなので「愛国」にバイアスがかかっているのだろうけど、CNNのインタビューでも同様なことを語っていた)
あとは、
「ストイック」
普通、彼ほど成功した男性が「妻を愛している」と言うときは大抵「妻を」と「愛している」の間に「結局は一番」というキーワードが隠されているものだが(ラテン男ならなおさらそうかな)、バッジオの場合それがなさそうだ。それどころか「妻としかmake loveしたことがない」と言っても信じてしまいそうだ。そっち方面も含めて、全ての情熱が家族とサッカーに注がれているような気がする。