Kill Bill

長い間待っていたこの映画を見て少し悲しくなった。日本の描き方がずれいてるからでも、Uma ThurmanLucy Liuの日本語がへたくそだからでも、血の量が多すぎるからでもなくて、Tarantinoの「昔のB級映画のおいしいところをいっぱい入れました」という主張を受け取った以外に特に感じるものがなかったからだ。彼の過去の作品、Pulp Fictionのようになにか得体がしれないけどぞくぞくする感覚も、Jackie Brownのように渋くてかっこいい姿も、どれも「これまでに見たことのないもの」を見た興奮を味わうことができた。今回は無い。もっと言えば、彼は進歩する意志を放棄してしまったのではないか、という疑問が浮かんできて切なくなった。確かに映像はきれいだし、単に引用するだけでなくいろいろな工夫をしているのだろうけど、全体的になにか停滞した感じが漂う映画だった。どことなく、手馴れているのだ。そして何をやっても過去の焼きなおしの範囲を出られない、閉塞的な匂いがする。
近年のサザンオールスターズを聴いているときの感想と同じだ。新しい技術を使うし、ヒットもするし、敬意を払うべき人たちであることは変わらないけれど、もうこの人たちからはかつて味わったような興奮は得られないだろう、という悲しいあきらめの気分だ。Tarantinoは映画オタクであることの価値を世の中の人に広く認めさせた最初の人間であるはずだ。その彼が「枯れて」しまったのかと思うと、世界が少しつまらなく見えてしまう。
まあUma Thurmanが出ているので何があろうとも結局は許す。偉そうに。
そして栗山千明にはしびれた。Tarantinoという人は実力の割に埋もれている俳優と世に知られていない俳優を発掘させるとすごい人で、彼女は後者の素晴らしい例である。Lucy Liuの「やっちまいなあああああ」はもう有名になっているので、聞いても「来た来た」だったが知らずに聞いたらやはりしびれるだろう。実力の割に最近埋もれていた例はDaryl HannahDavid Carradineになるだろうか。David Carradineはその昔Kung Fuというアメリカ製の(当然)カンフーTV活劇に、少林寺拳法をあやつりながらアメリカの西部を渡り歩く主人公の役で出ていた。僕はそのころ7歳くらいで、そのころ住んでいたマルタ島の白黒TV(かつイタリア語)で見ていた。あばら骨の浮き出た(裸にならなきゃいいのに)ひよわそうな白人が歩いたり倒れたり少し殴ったり殴られたりするだけのドラマで、子供なのでカンフーとはそういうものだ(なよなよとした人間がへたばりそうになりながらあてどもなくうろつくだけ)と理解して見ていた。この見方は、日本に帰ってきた後、リーリンチェイ主演の「少林寺」を見るまで続いた(Jet Liなどという芸名をつけたことを後悔していると、彼はいつか必ずインタビューで告白するだろう)。どうやら、Kung Fuは当初ブルース・リー主演で撮影することになっていたらしい。アメリカのショービジネスだって必ずしも合理的に、理性的に動いているわけではないのだな、と気づかせてくれる例の一つだ。ひょっとしたらMBAのケーススタディになっているかもしれない。